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第2話:勇者はこうして創られる

  

 “誤解”というモノは大概の場合、解けるものなら早いうちに解いておくに限る。
 そのタイミングを見失えば、真実を言い出すこともできぬまま誤解に誤解が重なって「もうコレ、バレたらいろいろ終わりじゃね?」というレベルに達してしまうことだってあるのだ。
 だから、たとえその誤解が「異世界の美貌の王女に“地球”の勇者と勘違いされる」という類の、自分にとって非常に気持ち良く、かつそうそうバレないような誤解であったとしても、放置すべきではないのだ――そのことを、当時の自分が理解できていたならと、今の俺は切実に思う。
 これは、まだいろいろと考えナシで、世の中の大概のことは最終的に自分の都合の良い方向へ転んでくれると信じていた俺の、リアル中二時代の物語である――。

☆☆☆

「ところでアーデルハイド様、こちらの世界にいらしてから言語以外で何か、あちらの世界との違いを感じたりはなさいませんか?たとえば空気の薄さですとか、気温や湿度ですとか……」
 うっかり確定させてしまった俺こと高橋光太郎の“こちらの世界での通称名”をさっそく呼びかけ、フローラがナナメ下から俺の顔をのぞき込んでくる。
 ふわり、と髪やドレスが揺れた拍子に、ふあん、と爽やかな甘い香りが漂ってきて、せっかく握手を解除して落ち着かせた俺の心臓は再び激しく動悸し始めてしまった。
(何か……めっちゃイイ匂いすんだけど……っ!母ちゃんが時々つけてるドぎつい香水の匂いなんかとは全然違う、朝の森に咲いてるリンゴの花みたいな、めっちゃ天然なイイ匂いなんだけど……っ。“姫”ってのは、こんなイイ匂いのする生き物だったのか……っ!?)
 内心の動揺を必死に押し隠し、俺は平静を装って口を開く。
「いや、べつに。あっちの世界でも国や地域や地形によって気候は違うし、大気や温度の状態も常に変化してるし、そんな違和感はないな。むしろ穏やかな春の陽気って感じで快適だし」
「そうですか。ひとまず安心致しましたわ。こちらの世界の環境が、異世界人であるアーデルハイド様の生存に適さないものだった場合、大変なことになりますもの。これからも、何か少しでも違和感があればすぐに仰ってくださいね」
 にっこりと、花がほころぶように微笑んでフローラが言う。その笑顔と、まるで一流画家の見事な筆さばきで描き上げられたかのような形良い眉毛にぼーっと見惚れて、俺はその言葉の中に潜んでいた不穏な一言をさらりと聞き流してしまった。
「では、まずはこの“界聖玉宮”略して“界聖宮”の中をご案内致しますわ」
 言いながら、フローラがさりげなく俺の手を引く。柔らかなその手に手を引かれて“この世界最初の一歩”を踏み出しながら、俺は何だかめまいのようなものを感じていた。
「ちょ……っ、あの、フローラ……っ、手ぇ引っ張られなくても行くし……っ」
 心臓やら全身の脈やらが今までにない活発な働きをし過ぎでクラクラするし、何だか身体が宙にでも浮いているように妙に軽く感じられ、足元までフワフワしている気がした。
 思えば、兄弟は何を考えているのかイマイチ分からない兄だけで身近な女性と言えばお袋だけ、学校は共学だがほとんど同性とつるんでばかりで女子とは事務的な会話しかしたことのない俺が、いきなりヒラヒラドレスの美貌の姫と手と手を取り合いおしゃべりするなど、今までとのギャップがあり過ぎて思春期男子の精神的許容量を余裕でオーバーしている。
「あら……。これは失礼致しましたわ」
 フローラは俺の焦りや思春期的困惑になどまるで気づいていない様子で、ぱっと手を離し謝罪する。
 だが、その距離は依然として近い。肩と肩が触れそうな距離で、甘やかながら凛と爽やかなその香りも相変わらず俺の鼻をくすぐり続けていた。
「……つーか、いいのか?一国の王女様が今日会ったばかりの男とこの距離感って……。姫様ってフツーもっとこう、騎士とかにガッチリ守られて一般人は近づけない――とかじゃないのか?」
 照れ隠しならぬ動揺隠しにそんなことを口にしてみる。すると途端にフローラの美麗な眉毛がくもった。
「騎士ならあちらにおりますが……あの通り、私とは常に一定の距離を保って、それ以上には決して近づいて来ないのです。侍女たちも必要以上に私に近づこうとはしませんし、私と親しく交わってくれるのは、家族や他国の王家の――特に私と同じ立場にいる姫だけなのですわ。……ですから、普通の距離感というものが、私には分からないのかも知れません」
 寂しそうに微笑んでフローラが指し示す先には、確かに腰に剣をぶら下げ、そろいの服に身を包んだ、いかにも「騎士!」という感じの男たちが数人、こちらへ目を光らせていた。
「フローラと同じ立場(・・・・)って……?」
 気になって訊いてみると、フローラは首元のチョーカーについた飾りをそっと指でなぞる。雪の結晶モチーフの中央に複雑にカットされた宝石がはまったデザインだ。宝石はパッと見、透明なようでいて、光の加減によりその輝きを虹の七色に変化させる。
 どこかで見たことのある宝石だな、と思って、すぐに思い出した。それは、あの赤ずきん風王女リィサが持っていた鍵の形のペンダントにはまっていたのと同じものだ。
「これは、この世界に八つだけ存在する“聖玉”と呼ばれる聖なる石のうちのひとつ。この世界の“理”――その中でも特に時間と空間に干渉する力を持つ“界聖玉”と呼ばれる宝石です。八つの聖玉は八つの国によって管理され、それぞれの国に聖玉の番人たる乙女が存在します。その乙女は“聖玉姫”と呼ばれえ、役目を終えるその日まで“聖玉宮”で聖玉を守り続けなければならないのですわ」
「時間と空間に干渉……?じゃあ、もしかして、俺をこの世界に引きずり込……あ、いや、“召喚”したのも、その“聖玉”の力なのか?」
「ええ。聖玉姫の座に就けるのは、聖玉の力を引き出すことのできる者のみですから。……私の力は歴代の聖玉姫の中でもとりわけ強いそうですわ。けれど、そのせいで皆から恐れられてしまっているのです。でも、恐がられて当然ですわよね。世界の理さえねじ曲げてしまえる女なんて……」
 フローラは自嘲するようにくすり、と小さく笑った。
「え?いや、フツーにスゴくね?だって(やり方はちっとばかしえげつなかったけど)世界と世界をつなげて人間一人連れて来るなんてことを、史上初でやっちまったわけだろ?超天才じゃん。もっと自信持ったり、自慢したりしていいことだと思うけど?」
 俺はこの時、彼女の事情を半分も理解していなかった。だから、単純に「俺を召喚した」という事実だけでそう言ったのだった。
 しかしフローラは信じられないものを見るように、元々大きな目をさらに大きく瞠って俺を見た。
「こんなことを聞いても、恐れたり動じたりなさいませんのね。さすがは“勇者”様。この種の世界の機密に、あちらの世界でも関わっていらっしゃったのですか?」
 ゲームやアニメやラノベの中で「セカイの存亡に関わる」ような壮大な設定に慣れ親しんできた俺にとって、フローラの話は特に物珍しくもなければ、とりたてて危機感を覚えるようなものでもなかった。しかし、そんな俺の“元の世界事情”などさっぱり知らないフローラは、俺のこの動じなさをまるで違う方向に解釈していたらしい。
 だが、この時の俺はフローラの誤解をマズいと思うどころか、全く別のことに頭を囚われていた。
(……『勇者様』……。なんってイイ響きなんだ!まさかガチな姫様にそう呼ばれる日が来るとは……っ。この感動を忘れなければ、俺、この先の人生で嫌なことがあっても強く生きていける気がする……っ)
 感動に打ち震えて言葉も出ない俺に、さすがのフローラもちょっと引いた様子で声をかけてくる。
「あの……アーデルハイド様……?」
「……っ、あ、ああっ。そうだな……。向こうの世界で俺は、世界征服を目論む悪の秘密結社と戦ったり、大国の裏に暗躍して世界戦争を巻き起こそうと企む悪の組織を倒したり、武力で国民を虐げる腐敗した軍部を粛清したり、遥かな昔に封じられた魔王の復活を阻止したり……まぁ、いろいろなことをやってきたな」
 ヘンな間を作りたくない一心で、俺は元の世界でゲームの中の主人公として経験してきた武勇の数々を、深く考えもせずにペラペラとしゃべりまくった。
(……まぁ、ウソではないよな。『ゲームの中で』ってのを省略してるだけで。それに地球の世界情勢なんて、俺が話さなきゃこっちの世界の人間には分かりっこないわけだし)
 重大な事実を隠してわざと相手の誤解を誘うのは、もはやサギの一種という気がするが、この時の俺はまだ「ウソをついていなければセーフ」という心算でいたのだ。
 フローラは俺の説明を疑いもせず、素直な称賛の眼差しを向けてくる。
「まあぁぁ……。アーデルハイド様は素晴らしく優秀な勇者様なのですね。……それにしても、あちらの世界は私たちが思っていたよりずっと物騒な世界のようですね。今度、その辺りのことを詳しくお聞かせ願えますか?」
(そ、そうだった……。俺、“地球研究のための生きた資料”なんだった……。やべー……。どう説明すればいいんだ?……ってか、魔王とか勇者がフツーにいる地球って、どんな地球だよ)
 異世界に召喚されて一時間経つか経たないかのうちの致命的な会話選択ミスに、冷や汗が止まらない。
「アーデルハイド様?あの……私、何かいけないことを申しましたか?」
 フローラはそう言って、まるで自分が失言したかのように落ち込んだ顔をする。その姿に罪悪感がハンパなく押し寄せてきた。
「いいい、いや……っ、そ、その……っ、ホラ、ココが異世界とは言えさ、トップ・シークレット的に話せないことが、あったり、なかったり……?立場上、いろいろと言えないこともある、みたいな……」
 必死に絞り出したしどろもどろな言い訳に、だがフローラは心得たようにうなずいてくれた。
「“守秘義務”ですね。分かりますわ。国の要人ともなると、どうしても国家機密に触れざるを得ないことが多々ありますもの。異なる世界においても気を抜かず、秘密を守り通そうとするそのお心、ご立派ですわ。アーデルハイド様のお話しになれないことにはそれ以上触れませんので、ご安心ください。元々、私たちが知りたいのは、そちらの世界の現在の世界情勢ではなく、大まかな概要ですもの」
「そ、そう言ってもらえると、助かるよ」
 ホッと安心することを「胸を撫で下ろす」と言うが、この時の俺はまさに、焦ってドキドキした心臓の辺りを無性にナデナデしたい気分だった。
 しかし、今後どう言いつくろったところで、最初にうっかりしてしまった「俺、勇者」発言は最早どうにもならない。
 それをどう誤魔化していこうかということに脳みその半分くらいを占領されて、俺はフローラがしてくれる界聖宮の各所の説明もほとんど頭に入らない状態だった。
「これで本殿は回り終えましたわね。では次は翼棟に移りましょう」
 ぼーっとしている間に界聖宮の“母屋”にあたる部分の案内は終わり、フローラは俺を回廊でつながった別の建物へと連れて行こうとする。が、その直前で一人の女に呼び止められた。
 神官のようにも侍女のようにも下手するとレトロな時代のナースのようにさえ見える、全身オフホワイトのエプロンドレスに身を包んだその女は、廊下を全力疾走してきたかのように真っ赤な顔で息を切らしていた。
「お待ちください……っ、聖玉姫猊下
「……何用ですか?私は今、大事なお客様をご案内中です。火急の用以外は後にしてください」
 フローラはいかにも“気高い王女様”といった感じの毅然とした態度で女を退けようとする。だが……
「それが、その……女王陛下のお召しでして……。先ほど感知された時空間の揺らぎについてお話を伺いたいとのことで……」
「お母……女王陛下が……!?」
 フローラの顔色が目に見えて変わる。
「まさか“結界の中庭”で行った実験を、この距離で感知されるなんて……。さすがは元聖玉姫……侮れませんわね」
 小声でブツブツ呟くフローラの肩は、小刻みにカタカタ震えているようだった。
「……アーデルハイド様。申し訳ありませんが、私、少々ここを離れねばなりません。1〜2時間で戻って来られると思いますのが……。それまで別の者に案内を任せてもよろしいでしょうか?」
「え?あ、ああ。いいけど……」
 フローラの明らかに動揺しまくった様子に、俺は反射的にうなずくしかなかった。当時は「フローラって母ちゃんに弱いんか?」くらいにしか思っていなかったが、フローラの母の人となりを知ってしまった今の俺なら、この時の彼女の動揺と恐怖が容易に想像できる。
「それでは失礼致します。何かありましたら私に連絡するよう、界聖宮の者に仰ってくださいね」
 そう言うなりフローラはチョーカーの聖玉に指を触れ、一瞬にしてその場から消えた。地球で言うところの瞬間移動というヤツだ。
 その場に残された俺はしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてある重大な問題に気づき、思わず声を漏らしていた。
「え……『他の者に案内を任せる』って……誰に?」
 とりあえずフローラを呼び止めた女に視線を向けてみるが、彼女は「え?私?いえいえ知りませんけど」とでも言いたげな困惑の表情で目を逸らす。
(……うん。だよなー。『案内を任せる』とか言いながら、誰にも何も言わずに行っちゃったもんなー……)
 後々分かっていくことだが、フローラは何かと段取りが下手だ。……と言うより、一国のお姫様・兼・聖玉姫という特殊過ぎる立場のせいで、他人に段取りをしてもらうことはあっても、自分で段取りをしたことがほとんど無いがゆえのグダグダさと言うべきか……。
 とにかく、こうして俺は異世界1日目でほとんどワケも分からないまま放置されるという憂き目に遭ってしまったわけだが……
「界聖宮内の案内でしたら我々が致しましょうか」
 そう言ってくれた人たちがいた。ついさっきまで数メートル離れた場所から鋭い目でこちらを睨んでいた騎士の男二人組だった。
(ええぇー!?このコワモテな騎士の兄ちゃん達かよっ!?それだったらまだ、こっちのレトロ・ナースっぽいお姉さんの方が……)
 救いを求めるように女の方を見るが、彼女は「なら安心ですね。どうぞごゆっくりご覧になっていってください」と言って、とてもイイ笑顔でそそくさと去っていってしまった。
 なので俺は「あ、じゃあ、よろしくお願いしまーす……」と騎士二人に頭を下げる以外に選択肢がなくなってしまった。

☆☆☆

 ヒラヒラドレスのお姫様から一転、腰サーベルの騎士二人にガッチリ両脇を固められて界聖宮内を回ることになった俺だったが、騎士たちは近くで話してみると最初のコワモテな印象とは違い、意外とにこやかで気さくな人たちだった。
「……と言うわけで、剣の腕での立身出世を夢見て上京し、何とか聖宮騎士団に入れた、というわけさ」
 いつの間にか互いに敬語も取れ、俺は二人の身の上話まで聞くようになっていた。
 俺は新しいゲームのストーリーでも聞くような感覚で、興味深く二人の話を聞いていたのだが……
「……で、お前さんは?その軍服、今まで見たことがないのだが、どこの所属なんだ?しかも聖玉姫猊下が御自ら召喚し、あそこまでそば近くに置かれるとは……タダ者ではあるまい?」
 俺の着ていたツメエリの制服を指差して『今度はオマエが身の上を語る番だ』とばかりにそんなことを問われ、正直焦りまくった。
(うーん……。異世界人だって言うのは、何かマズい気ぃすんだよな……。フローラがあの赤ずきん姫に口止めとかしてた気がするし……。つか、この人たちにはコレが軍服に見えんのかよ?……まぁ、この人たちの着てる服に似てるっちゃ似てる気もするけどさ……)
 俺が何も答えられずにアワアワしていると、もう一人の男がなぜかドヤ顔でとんでもないことを言い出した。
「……と言うか、俺、耳が良いもんで聞こえちゃったんだよなー。『勇者様』だとか『秘密』だとか『暗躍』だとか『腐敗』だとか『粛清』だとか……。所々しか分からなかったけど、まとめるとアレだろ?つまりアンタは国家機関のどこかに腐敗がないか秘密裏に調べて、それを粛清しようと陰で活躍する勇者ってことだろ?」
(……何で所々しか聞き取れてないくせにムリヤリまとめるかな……)
 『俺、一を聞いて十を知る男なもんで』とでも言いたげな騎士その1のせいで、またしてもエラく厄介な勘違いが生まれてしまった。だがさすがにこの時は、俺もあわてて訂正しようとしたのだが……
「ほー。そんな若くてちっこいのに、人は見た目によらんなぁ。……と言うか、ひょっとしてお前さん、俺らより階級が上だったりするのか?敬語を使わなくちゃいけない立場だったりして……」
 ちょっと間に合わず、先にもう一人の騎士に口を開かれてしまった。
「いやいやいや、そんなことないし!今さら敬語なんていいから!俺、今はただのフローラの客だから!」
 俺的には『そんな大層な人間じゃないっスよ!一般人っスよ!』と必死にアピールしたつもりだったこの言葉は、だが逆にさらなる誤解を生むことになる。
「……聖玉姫猊下を……呼び捨てに!?しかもその口振り……、もしやお前さん、公的なお客人ではなく、猊下のプライベートなお客様ということなのか!?」
「それって、つまり、そういうことかよっ!?……そう言えば猊下のあんな楽しそうなお顔、久々に見たな……。そうか。猊下もついに花ムコ探しに本腰を入れるおつもりなんだな?」
「は、は、花ムコって……!?フローラって俺と同い年くらいじゃないのか!?もうそんなの探してんのかよ!?早くね!?」
 俺はいろいろな意味でショックを受けて、思わずそう叫んでいた。
「お前さんがいくつなのかは知らんが、猊下はもうすぐ十五歳になられるからなぁ。早過ぎるということはないだろう」
「そうそう。それに猊下の花ムコ選びともなると、かなり難航するだろうから、早く始めておくに越したことはないだろうし」
 動揺する俺とは裏腹に、騎士たちはさも当たり前のようにあっさりそう言う。
「……そっか。こっちって結婚早いんだな……って言うか『難航』って何でだ?そりゃ、つり合いとか政略的な問題とかあるだろうけどさ……。聖玉姫の結婚って、そんなに難しいものなのか?」
 あれだけの美少女で姫なら、どんな男もよりどりもどりだろうに、という俺の素朴な疑問に、騎士たちは顔を見合わせ、何とも言えないビミョウな表情になった。
「いや……まぁ、聖玉姫がどうこう以前に……なぁ」
「あの方と生涯添い遂げる覚悟なんて、相当な“勇者”でもなけりゃできないだろうから……なぁ……」
 騎士たちのこの異様なまでの歯切れの悪さの理由を、この時の俺はまだ知らない。……まぁ、わりとすぐに知ることにはなるのだが。
「あら?私がどうかしまして?」
 話の種にしていた当の本人にいきなり背後から声をかけられ、俺たちは全員一瞬肩をビクッとさせて振り向く。そこにはついさっき瞬間移動で現れたばかりと思しきフローラが、長い髪とスカートの裾をふわりと宙に泳がせたまま立っていた。
「せ……聖玉姫猊下……っ!も、もうお戻りになられたのですね……っ」
 騎士たちは俺と話している時とは打って変わって、まるで猫に睨まれたネズミのようにビクビク怯えていた。
「ええ。アーデルハイド様のご案内役、ご苦労様でした。後は再び私が案内致しますので、通常勤務に戻ってくださいな」
 騎士二人はフローラのその言葉に声をそろえて返事すると、逃げるようにその場を離れ、例のフローラから数メートル離れた定位置に戻る。俺はただただ呆然とその様子を見ていた。
 フローラは溜め息をひとつついてから俺に向き直る。
「お待たせいたしました、アーデルハイド様。界聖宮内でまだご覧になっていない所はありますか?」
「……いや。もう一通り案内してもらったけど」
「では今度は門前街をご案内致しましょう。こことは違って活気があって賑やかですのよ」
 そう言って弱々しく微笑むフローラは、ほんの1〜2時間の間に一体何をしてきたのか、かなりの疲労を負っているように見えた。
「あ、ああ。……って言うか、大丈夫か?今日はあちこち行ったり来たりで大分疲れてるんじゃないのか?俺のことは後回しにして休んでいいんだぞ?」
 見るからに消耗している女の子をそのまま案内で歩き回らせるのは人としてどうかと思ったので、俺はごくごく当たり前にそう言った。だがフローラはまたしても大きな瞳を見開いて俺を見、それから心の底から幸せそうな、むしろ見ているこちらが心を蕩かされてしまいそうな極上の微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。アーデルハイド様は勇者であられるだけでなく、とてもお優しいのですね。私なら大丈夫ですわ。むしろ今は外の空気を吸いたい気分ですの。アーデルハイド様にご一緒いただけるなら、私としても本望ですわ」
 ただでさえ美麗な姫の天使のような微笑に、美少女免疫の無い俺は一瞬完全にフリーズした。呪いにも似た硬直状態を何秒か経て、ようやく俺はぎこちなく頷く。
「あ、ああ。じゃ、じゃあ、行こうか」
 今でも思うのだが、美少女の笑顔というものには、ある種の破壊力が備わっている気がする。それは人間の思考力の何%かを綺麗さっぱり破壊してボンヤリさせる力だ。実際この笑顔を目の当たりにした俺は、騎士たちの妙に歯切れの悪い言葉だとか、解かなければいけないはずの誤解だとか、そういったビミョウに気がかりなアレコレを全てキレイに忘れ去り、これから始まるフローラとの街中デート(?)のことしか頭になくなってしまったのだった……。

☆☆☆

 フローラの言葉通り、門前街には人が溢れていた。
 それも住民だけではなく、明らかに旅行者らしき大荷物を背負った人間も大勢いる。
「この世界では各地の聖玉宮を巡る旅が流行っていますの。ですから門前街はいつでも観光客と、観光客目当ての商人達でにぎわっていますの」
 界聖宮の周囲は石畳の広大な広場になっていて、そこでは土産物らしき品を売る屋台やワゴン、見世物をする大道芸人などが多くの人を集めていた。だが俺はそれらの光景より先に、あることに心を囚われていた。
(この国の人間って、平均身長高めだよな。……だからか。だから『ちっこいのに見た目によらん』だったわけか。……だよな。べつに俺がチビってことじゃないよな!)
 さっきの騎士の発言を、実は滅茶苦茶気にしまくっていた俺は、そうやって自分をそっと慰めるのに必死だった。
(……つーか、この国の人たちって、心なしか若干ヒョロい……?栄養状態良くねぇのか……?)
 広場では上半身をわざと剥き出しにしてマッスル・アピールした大道芸人の男が、人間の身長より長い柄を持つ巨大なランスを道行く人々に次々と持たせている。だが、見るからに細身のこの国の一般市民たちは、誰一人まともに持つことができない。大道芸人はそうしてランスの重さを観衆にたっぷり見せつけてから、それを軽々と頭上で回してみせるのだ。
(そんな重いもんかなぁ?アレ。そりゃ、持ったら腕プルップルしそうだけどさ、一応、十数秒くらいは根性で持ちこたえられるもんじゃねぇの?この国の人、マジで一秒も持ててねぇじゃん。……まさか、この国の食い物、筋肉作るための栄養が全っ然含まれてないとかじゃないよな?いや、異世界だとそういう可能性もあったりすんのか……?)
 これからの異世界生活に初めてほんのり不安を覚えた俺だったが、そんなほんのり薄い不安は、隣の美姫のはしゃいだ笑顔によってすぐに吹き飛ばされてしまう。
「ご覧くださいな、アーデルハイド様!あちらではお土産物を売っていますわ。あちらの屋台では焼き菓子を、こちらのワゴンでは私に似せた陶器のお人形を売っているようですわ。少し覗いてみませんか?」
「へ?フローラに似せた人形……?」
「ええ。聖玉姫をモチーフにしたお人形や飾り物は、どこの門前街でも人気のお土産物ですの」
「へー……。フローラをモデルにした人形か……」
 だったら俺も記念に欲しいかな……などとワゴンを覗いてみて、すぐに俺はその考えを改めた。
 いかにも大量生産品らしいその人形は、フローラのすんなり華奢な身体つきとは似ても似つかない“ずんぐりむっくりスタイル”な上、顔も『特徴さえ出てればいいや』という感じのビミョウすぎる出来だったからだ。
(つーか、フローラのこの超絶美麗眉毛が少っしも活かされてねーじゃん!他はテキトーでも、そこだけはきっちり押さえとけよな!)
 心の中で毒づいてフローラを振り返ると、フローラは変装用に目深にかぶったフードの下で、何ともホンワカした笑みを浮かべていた。
「うふふ。私がモデルというのが何とも面映ゆい気分ですけど……なかなか愛らしいお人形でしょう?お人形とは言え、“私”がこうして多くの人々の手に渡り、愛でられているというのは感慨深いものですわ。……本当の私は、皆から敬遠されるばかりですもの」
 平安時代の美人画を多少“瞳パッチリ”にしたようにしか見えないその人形が『可愛い』というのにどうしても同意できず、何と言うべきか迷っていると、ワゴンの持ち主らしき行商人が明るく声をかけてきた。
「どうぞどうぞ!お手に取ってご覧ください!我が国の誇る界聖玉姫フローラ姫様の御姿人形ですよ!フローラ姫様と言えば、八聖玉姫の中でも3番目の若さを誇り、その美貌も……って、えぇっ!?あ、あんた……いや、貴女様は……ま、まさか……!」
 どうやらセールス・トークの最中にフローラの正体に気づいてしまったらしい商人は、見る間に顔面を蒼白にし、口をぱくぱくさせ、そのまま土下座しかけたかと思えば、次の瞬間にはワゴンの取っ手をつかんで数歩逃げかけたりと、明らかに恐慌状態に陥っていた。
「落ち着いてくださいな。私は何も咎めるつもりはありませんわ。それに、今はお忍びですから……私の正体が周りに分かってしまうような態度は、取らないでいただけると有難いのですが……」
 フローラの言葉に商人のパニック状態は一旦沈静化したものの、その目は明らかにフローラを恐れたままだった。フローラは困ったように微笑み「お騒がせして申し訳ありませんでした」と言い残してその場を離れた。

☆☆☆

「申し訳ありません。失敗してしまいましたわ。近くで顔を見られると、やはり私だと分かってしまうようですね……」
 フローラはしゅんと項垂れ、重苦しい溜め息をつく。
「んー……いやー……それだけでも、ないような……」
 俺は周囲を見渡し、言葉を濁す。
 さっきの人形売りからはだいぶ距離をとったのだが、フローラはそれでも周りの住民たちからチラチラ注目され、ヒソヒソ何かを言われている。
「こんな天気の良い日に、あんなマントを羽織って、わざと顔を隠すようにフードまでかぶって。あれ、絶対フローラ姫様だわ」
「ご本人は変装なさっていても、後ろを離れてついてくる騎士様たちはいつも通りですものね。あれでお忍びのおつもりなのかしら?」
 道端で会話している女たちの身ぶり手ぶりから察するに、たぶんこんなことを言われていたのだと思う。
(……うん。まぁ、他の住民たちから明らかに浮いてるしなー。フード付きマントで変装してても、その下から豪華なヒラヒラドレスがチラ見えしてるし。それに、あからさまにSP的なの付いてるしな……)
 俺は何とも言えない顔でフローラと、その後ろ数メートルの距離を相変わらず付いてくる例の騎士二人組を見比べた。
「うわぁ!あれがフローラ様なの!?この国のたった一人のお姫様で、聖玉姫なんでしょう!?もっと近くで見たい!」
 こちらの世界でも幼い子どもは空気が読めないものらしい。大人たちがこちらに聞こえないヒソヒソ声を保っているのに、子どもは平気で丸聞こえなボリュームではしゃぎまくる。
「こら!滅多なことを言うもんじゃない!近くになど、とんでもない!あの方は我々がおいそれと近づいて良いような方ではないんだ!」
 子につられたのか、親らしき男も叱る声のボリュームが大きくなっていた。
 さすがにフローラも気づき、苦笑する。
「……また、正体を悟られてしまいましたわ。……それにしても寂しいものですわ。国民の皆さんも、幼いうちはあのように無邪気に“姫”に憧れてくださいますのに、大人になるとまるでハレモノに触れるかのようになってしまって……」
 だがそんなフローラのしんみりムードは例の空気を読まない子どもの発言により見事に吹き飛ばされる。
「えー?でも、あのお兄ちゃんはフローラ様の隣を歩いてるよぉ?」
「あれは…………きっと、そう、アレだ!あの人はああ見えてスゴい勇者なんだよ!」
「えー?そうは見えないけどなぁ……」
「人は見かけによらないんだよ!ホラ見ろ!あのフローラ姫様のあんなにお近くを堂々と歩いていらっしゃる!あれが勇者でなくて何だと言うんだ!」
(……ん?何かおかしくね?何で見ず知らずの街の皆さんにまで勇者扱いされてるんだ、俺)
 さすがに俺も不審な何かを感じ始めていた。だが、まだほぼノーヒントのこの時点で真相を把握できるとしたら、それはIQの超高い天才かエスパーくらいなものだ。俺はそのどちらでもないので当然真実に気づくはずもなかった。
 困惑している間にも親子の言い争いは続き、その会話内容によって、もはやお忍びの意味もないほどフローラの正体は周りにバレバレになってしまっていた。さすがに気まずくてそそくさと立ち去ろうとしたその時、道端に座り込んでいた男がふいにギラついた目でこちらを睨んできた。
「フローラ……?フローラ姫……だとぉ……!?」
 その声は明らかに呂律が回っていない。立ち上がる動作はふらついているし、瞳も異常なほど小刻みに震えているし、どう見てもまともな状態ではなかった。
「貴様……っ!貴様のせいで……っ!俺の組織はメチャクチャに……っ!」
 男はフラフラした足取りで俺たちに歩み寄り、行く手を阻むように前に立ちはだかった。
「……あの……どちら様でしょうか?仰っていることがよく分かりませんわ」
 フローラが戸惑いながらも律儀に受け答えしようとする。
「ばか!明らかに酔ってるかヤバいナニかに手を出してるかだろうが!下手に相手したら絡まれるぞ!」
 俺はフローラを庇うように若干前に出る。男は顔つきはいかにもヤバかったが、足元も覚束ない様子だったので、この時点ではそうそう危険はないものと思っていた……のだが……
「貴様、俺のことが分からないのか!?貴様が視察なんぞと称して街に来たせいで、俺は何もかも失っちまったんだ!しかも俺の可愛い手下どもをあんな騎士の大群を使って散々追いかけ回しやがって……!おまけに、おまけに……あんなヒデェことまで……。アイツら、どんなに恐ろしかったことか……。それを、覚えていないだと……!?」
 男の話に何かピンと来るものがあったのか、フローラがハッと表情を変える。
「……もしかして、あの時の組織の……」
「ん?フローラ、あの男のこと知ってんのか?」
「……直接は存じませんわ。ですが以前、年に一度の街中視察を行った際、観光客相手に詐欺や窃盗を働く犯罪グループの一味を偶然発見いたしまして……追いかけるうちにその組織のアジトを発見したものですから、騎士達を集めて突入してもらいまして、一斉検挙してもらったのですわ。ですが、そのグループをまとめ上げていた元締めだけは取り逃がしてしまいまして……」
「え!?じゃあアレ、犯罪組織の元ボス?ってか、完全に逆ギレじゃん。つーか、姫様が街の視察でそんな大捕り物やってたんかよ!?危なくね!?」
 ツッコミどころが多過ぎて、頭の回転が追いつかない。と言うか、フローラの清楚で可憐な姿と刑事ドラマの劇場版ばりの大捕り物とのイメージが合わな過ぎて、頭の中が既にプチ・パニック状態だった。
「危ないのは今のアーデルハイド様ですわ!ここは私に任せて早くお逃げになってください!」
 フローラがチョーカーの聖玉に指を触れながら俺の前へ出ようとする。
「……そうか。ヤる気か……。俺のこともアイツらと同じにする気だな!?ヤれるもんならヤってみろ!俺はそう簡単に廃人になったり(・・・・・・・)しないぞ!」
 男はヤケを起こしたように高笑いをしながら懐からダガーを取り出し、ヒュンヒュンと音を立てて振ってみせる。足がふらついていても身に染みついたナイフさばきは健在のようだった。
「……武器を捨てなさい。さもなければ、正当防衛として聖玉の力を使うことになりますわよ」
 フローラが毅然と男に言い放つ。だがパニック状態でアワアワした俺はその対決ムードをぶち壊し、ただ本能のおもむくままフローラの手を引っつかんで逃げ出していた。嫌がり振り切ろうとするフローラの手をムリヤリ引っ張っているわりに、なぜか50m走の自己ベスト以上の走りができている気がしたが、その理由を深く考える暇など、この時の俺にはなかった。
「アーデルハイド様……っ!いけませんわ!止まってください!」
「ばか!何で姫様が悪のボスと戦おうとしてるんだよ!騎士達に任せとけ!」
「それで騎士達がケガでもしたらどうしますの!?騎士達より私の方が“力”を持っていますのに……!」
 フローラは聖玉を握り締め唇を噛みしめる。
 後々分かっていくことだが、フローラはどうも自分が国の最重要人物であるという自覚が薄い。と言うか『民あっての国であり、王族である』という意識が高く『強い力を有しているものは、その力で弱い者を守らねばならない』と常々思っているせいで、いざという時は“守ってもらう”のではなく、逆に自分が国や民を“守ろう”と意気込んでしまうのだ。
 心がけとしては正義のヒロイン的で実に立派なのだが……正直、守られるべき姫様が自ら危険に飛び込んでいくことなど国民の誰一人望んではいない。むしろ『聖玉宮の奥深くで騎士達に守られるだけの姫であればどれほど良かったか』と思われているのだが、そのことをフローラは知らないのだ。
「お待ちください……っ、アーデル……ハイド様……っ。今、何か声が……っ!」
 息を切らしながらフローラが訴える。確かに後方から子どもの悲鳴のようなものが聞こえた気がして、俺は思わず足を止めていた。
 道の奥の方からは人々がパニックになりながら続々と逃げて来る。
「あっちで刃物を持った男が暴れてるぞー!」
「聖宮騎士様が応戦してるが、子どもを人質に取られて……」
「こっちへ来るぞ!逃げろ!」
 逃走中の人々の会話で、何がどうなっているかは大体つかめた。フローラはすぐに引き返そうとする。だが俺はそれを必死に止めた。
「手をお離しください、アーデルハイド様!子どもが人質に取られているなら、行って助けなければ!」
「どうやって助けるって言うんだ!?人質を傷つけずに相手を倒す手段があるってのか!?とりあえず逃げよう!聖玉宮には他にも騎士がいるんだろ!?」
 この時の発言はべつに深い考えがあってのものではなかった。ただ現代日本人の『犯罪は警察へ』という感覚から『その道のプロに対処を任せればいい』と、ぼんやり思っていたのだ。
「さすがは勇者!的確な状況判断だ!ひとまず猊下を危険から遠ざけることを最優先で頼む!界聖宮の他の騎士達は、これだけ騒ぎになっているんだから、気づいて向こうから応援に来てくれるはずだ!」
 聞き覚えのある声に振り向くと、騎士その1が抜き身のサーベルを手に駆け寄ってきていた。
「あんた、無事だったのか!もう一人は応戦中なのか?」
「ああ。だが人質を取られてるもんで、手出しできなくてな……膠着状態だ」
 騎士その1の話を聞いている間にも俺は、隙あらば手を振りほどいて駆け戻っていきそうな勢いのフローラを掴まえておくのに必死だった。
(ちょ……っ、暴れるなって……!悪のボスとバトルなんかされたら、俺、どうにもできんから!助けられんから、マジやめて!)
 一瞬でも手をゆるめたらバトルが勃発してしまうという緊張感と、壊れそうなほど小さく柔らかな手をこれ以上ないくらい力いっぱい握り締めている罪悪感とで俺の心臓は悲鳴を上げていた。
 だがその時、俺の手から逃げようとするフローラをさらに煽るような“声”が背後から聞こえてきた。
「フローラ姫ぇ……逃がさんぞ……。ここで会えたのは運命……!貴様は俺の復讐の刃によって倒される運命なのだ!さぁ戦え!さもないと何の罪も無い子どもが死ぬことになるぞぉ!」
 男はやけに芝居がかった口調で、しかも妙にテンションが高い。まるで酒のせいで気が大きくなった酔っ払いのようだ。
「“運命”だなどと戯言を……。そんなモノあるわけがない(・・・・・・・)だろうが」
 騎士その1が小声で毒づく。俺はその言葉に心の中で同意しながら、この時実はこの台詞の本当の意味(・・・・・)をまるで理解してはいなかった。

☆☆☆

「……うわっ!人がジャマで思うように逃げらんね……っ」
 元来た広場に逃げ戻ると、そこは変わらず人でごった返していた。しかも細道から逃げて来る人々のパニックが伝染して広場中が右往左往の大混乱状態だ。下手すると走ってくる人々に押しつぶされそうで、走るどころか歩くことさえままならない。
「いけませんわ!このままでは街の人々を巻き込んでしまいます!ここは相手の要求に従い、一騎討ちをするべきでしょう」
「いけません!聖玉の御力を完全に制御することもおできにならないのに、何を仰るのですか!」
 この時ばかりは騎士その1も必死の形相でフローラを止める。フローラはハッと表情を強張らせ、そのまま唇を噛みしめてうつむいてしまった。
「分かっています!ですが……私のせいで国民の一人が危機に陥ってしまっていますのに……」
 形良い眉が悲しげに震え、その下の大きな瞳から透き通った涙の雫が盛り上がっては零れていく。突然の美姫の涙に俺も騎士その1もひどく狼狽し、何とかこの涙を止める手段が無いものかとムダにキョロキョロ視線を動かしまくる。
 その時、偶然俺の顔に視線を向けた騎士その1が、名案を閃いたとでも言うように叫んだ。
「そうだ!こんな時こそ勇者の出番じゃないか!あんた、今まで相当な修羅場をくぐり抜けて来たんだろ!?だったら(たぶん)酔っ払った元犯罪組織のボスを倒して人質救出するのなんか、簡単にできるよなぁ!?」
(そ、その勘違いが今ここで効いて来んのかよっ!?)
 勘違いを正せなかったことを今さら悔いてももう遅い。しかも悪いことに、騎士その1のその声は、ちょっとマズいくらいに大きくて、よく通り過ぎていた(・・・・・)
「ん?勇者だと?」
「勇者様が現れてくださったの!?」
「見ろ!あの(・・)フローラ姫様とお手を繋いでいるツワモノがいるぞ!あの方こそ勇者に違いない!」
 初めは俺たちの周辺だけだったその声は、波のように伝播し、広場中へと広がっていく。
 最初は「勇者?」「勇者だって?」という疑問形のざわめき程度だったが、やがてそれは明確な一体感を持った“勇者コール”へと変わっていった。
「ゆ・う・しゃ!」「ゆ・う・しゃ!」「ゆ・う・しゃ!」
 それは“勇者”を称えるものであるのと同時に『勇者だったら悪者をやっつけろや!』という言外の圧力でもあった。俺は正直、頭が真っ白になって何も考えられない状態だった。だが広場の人々は『さぁ一騎討ちでも何でもしろ』とばかりに広場の隅に寄り、中央の辺りに闘いのためのスペースを空け始めた。
 人がいなくなって通りやすくなった道を、子どもを片腕で羽交い絞めにした男が悠々と……いや、やはり多少ふらつきながら歩いてくる。男は広場中に響く勇者コールに驚いたように一瞬足を止め、辺りを見渡していたが、やがて恍惚の表情でこう言った。
「そうだ!俺はあの暴虐王女を倒し、皆を恐怖から解放してみせる!俺は今日ここで勇者となるのだーっ!」
「いや!お前じゃねーよ!?」
 状況も忘れて思わずツッコんでしまった後、「ヤバい!」と思ったが、いわゆる後の祭りというヤツで、男の目は完全に俺をロックオンしていた。
「アーデルハイド様っ!お逃げになってください!」
 フローラが聖玉に手を触れながら俺の前へ出ようとする。それを見た男が薄気味悪い笑みを浮かべナイフを構えるのが見えた。広場の人々の口から悲鳴のような吐息が漏れ、俺の頭には一瞬、最悪の未来予想図が浮かぶ。
(……ダメだ!冗談じゃねぇ!ヒロインの命と引きかえに助かるとか、一番救われねぇ結末だろうがっ!)
 俺はとっさにフローラを騎士その1の方へ突き飛ばした。
「フローラを頼む!」
「えっ!?ちょ……ひぇえぇえっ!?」
 フローラの身体を受け止めた騎士その1はなぜか悲鳴を上げてパニクっていたが、俺にそれを観察している余裕などなかった。
(とにかく、攻撃を避けて……っ)
 正面から向かってくる男を、いつか見たアニメの一場面の見よう見まねで後ろへジャンプして避けようと地を蹴る。だが、それは俺にとって予想外の結果をもたらした。
「……うおぉっ!?」
 想定ではほんの少しばかり後ろへ下がるはずだった俺の身体は、まるで跳び箱の踏み切り板でも踏んだかのようにポーンと軽く宙に浮き上がったのだ。
「うおっ!?何だ!?あれが勇者の動きなのか!?」
「あんな軽くジャンプしただけで、あの跳躍力かよ!?フツーじゃねぇな!」
 観衆が驚きの声を上げるが、正直この時一番驚いていたのは俺自身だと思う。
(な……何が起きてんだ!?まさか火事場の馬鹿力的ナニかで、俺の中の秘められた力が解放されて……!?いや、今はそれどころじゃない!例のボスはどうしてんだ!?)
 視線を向けると、例の元・悪の組織のボスも一瞬硬直し、ポカーンとして俺を見ていた。だが、すぐに我に返ったらしく、再び嫌な笑みを浮かべてナイフを構えてくる。
「その動き……相当な手練だな。そうか、王女を倒すにはまず先にお前を倒せということか!面白い!いざ勝負だ!」
(いやいやいや!面白がるなよ!俺、完っ全に丸腰だぞ!?それでどう勝負しろってんだよ!?何で誰もソコ、気づかねんだよっ!?)
 さっきと同じ要領で男が突っ込んで来るタイミングでジャンンプして避けることを繰り返しながら、俺は『誰か一人くらい救いの手を差し伸べてくれる人間はいないのか!?』と広場のあちこちへチラチラ視線を送っていた。
 その目にふと、あるモノが飛び込んできた。今はただ石畳の上に転がされているだけのソレは、例の屈強な大道芸人が大袈裟に振り回してみせていた巨大な槍だった。
「ちょっとコレ、借りてくぞ!」
 一応一言そう言い置いて、走り抜けざま片手にランスを引っつかむ。
 べつに俺にソレが使いこなせるなどと思っていたわけではない。ただ、柄の長いランスと男の持つ短いナイフとでは間合い的にランスの方が圧倒的に有利だろう、使えなくても振り回しているだけで、ある程度相手の攻撃を防げるのではないか――そんな風に思ったのだ。重くて動かせなかった場合、逆に邪魔にしかならないのだが、そこに考えが及ばなかった辺りが当時のリアル中二思考だ。
 だが幸いなことに、ランスはすんなり持ち上がった。しかも、想像していたよりずっと軽々と……。
「オイ……。あいつ、あんな小っこいのに、あんなバカでけぇランスをあっさり持ってやがるぞ……」
「嘘だろ……。アレ、大の大人でも持ち上がらなかったシロモノだぞ……」
 周囲がどよめく。だが俺には逆にそのどよめきの方が理解不能だった。
(え……?いや、フツーに持てるけど。重いっちゃ重いけど、そんな腕プルプルするほどの重さでもないし……)
 それは例えるなら筋トレで使う鉄アレイくらいの重さに思えた。長時間持っていれば腕が疲れるだろうが、短時間なら余裕で持ち上げられる程度の……。
 試しに頭上高く持ち上げ、先端で大きく円を描くように振り回してみるが、やはり周りがどよめくほどの重さには感じなかった。
 不思議に思いながらも、とりあえず例のボスへ向けランスを構え直す。見ると、ボスは何だか得体の知れない怪物でも見るような目で俺を見ていた。
「な、な、な……何なんだ貴様は!?化け物か!?」
 何が何だか意味不明ではあったが、悪の親玉から恐れビビられるというのは悪い気分ではなかった。なので、俺はちょっぴり調子に乗った。
「武器を捨てて大人しく降伏しろ。さもないと……」
 こういう場合のテンプレ台詞を口にしながら再びランスを頭上でぐるぐる回した後、ボスの顔の横をかすめるように勢いよく前へ突き出す。ランスはビュンと風を切り、ボスの無駄に長く伸びたモミアゲの毛をブァサァァッと激しくなびかせた。
「ひ、ひぃぃィッ!?」
 ボスは情けない声を上げてその場に尻餅をつく。その手からポトリ、とナイフが転げ落ちた。その直後――
「今だッ!確保ッ!」
「そいつを取り押さえろ!」
「人質を保護しましたっ!」
 いつの間に紛れ込んでいたのか、広場を囲む群衆の中から次々に腰サーベルの騎士たちが飛び出して来た。ある者たちは例のボスを取り押さえ、ある者たちは呆然と石畳に座り込んでいた人質の子どもを保護する。その様はまるで立てこもり犯を確保する警察の特殊急襲部隊のようだった。
 呆気に取られてその様子を眺めていると、その騎士軍団のリーダーらしき男が一人、俺の前に来て深々と頭を下げた。
「あの男は我々聖宮騎士団が身柄を預かります。……よくぞ聖玉姫猊下のご介入を止め、一人の怪我人も出すことなく事態を収めてくださいました。皆を代表し、心から感謝いたします、勇者様!」
「え……?いや、俺、べつに何もしてないっスけど……」
 ただ逃げ回ったりランスを無駄に振り回したりしただけでそこまで感謝されるのはさすがに気マズくてそう言うと、リーダーは何故か感激したようにテンションを上げて身を乗り出してきた。
「何と謙虚なお人柄なのでしょう!さすがは勇者様です。やはり武力だけでなく、お心映えも素晴らしくあってこその“勇者”なのですね!」
「いや……べつにそれほどのモンでも……」
 何だか話がどんどんエスカレートしている気がして、俺は内心ちょっと引いていた。正直、未だに状況が把握できな過ぎて、どうリアクションしていいのか分からない。
 その時、犯人逮捕直後の緊迫感漂う広場にまるでそぐわない、のんびり間延びした声が背後から聞こえてきた。
「お取り込み中のぉ、所ぉ〜、失礼しますぅー」
 振り向くと、見覚えのある赤ずきんフードに三つ編み姿の少女がのほほんとした笑顔で立っていた。
「えっとぉー、聖宮騎士団長さん、申し訳ぇありませんがぁ、この方に大事な話があるのでぇ……ちょっと離れていてくださいますぅ?」
 見た目はボンヤリ天然っぽくてもさすがに一国の王女の言葉だけあって、リーダーは「ハイッ!」と即答し、ビシッと敬礼するとすぐさまその場を去っていった。
「えっと……あんたは確か……リィサ姫……だっけ?」
「そうですぅ。さっきゲットさせてもらいましたぁ、あなたの生体データを確認していた所ぉ、気になった点がありましてぇ……」
 リィサ姫は思わず『もっとテキパキ喋ってくれ!』と言いたくなるような相変わらずのスローテンポで話を続ける。
「どうもぉ、あなたは骨密度とかぁ、骨格とかぁ、筋肉のつき方などがぁ、この世界の同年代の一般人の平均データとぉ、違うみたいなのですぅ……。それでちょっとぉ、私なりに立てた仮説がありましてぇ、お話を伺いに来たのですぅ……。もしかしてこの世界はぁ、あなたの世界と比べてぇ、重力が小さい(・・・・・・)のではないかとぉ……」
「は!?重力が……?それって……」
「つまりぃ……この世界だとぉ、あなたはぁ、元の世界では持ち上がらないような重さの物をぉ、軽々と持ち上げられたりぃ、跳躍力がぁ上がったりぃ、するということですぅ。でもその代わりぃ、慣れないうちはぁ、頭に血が上ったりぃするかも知れませんけどぉ……。それに一概には言えませんがぁ、空気の濃度も違うかも知れませんのでぇ……めまいなどぉ身体の不調が出る可能性もありますぅ……。お心当たりぃありませんか?」
「え……っ」
 言われて思い返してみれば、思い当たるフシがありまくりだった。フローラに手を引かれて歩いていた時に感じた目眩も、恋によるものではなく、単なる身体の不調だったのかも知れない。
「え……っ、じゃあ、このランスを持ち上げらたのも……」
「はい。おそらくはぁ、重力が違うせいですねぇ……。この世界よりぃ重い重力の中で生活してきたあなたにはぁ、自然とぉこの世界の平均的な人間よりぃ、多くの筋肉がついているようですぅ」
 つまり、普段手足に重い鉛を巻いて生活していると、それを外した時に恐ろしく身が軽くなるという、少年マンガのテンプレ的“修行”と同じ効果が、俺に自動発生したということだ。
(スゲー……。修行もしてないのに修行したのと同じことになってるなんて、何という“お得感”……!)
 しみじみとナゾの感動を味わっていると、リィサ姫はそんな俺を眺め、フッと幼い顔立ちに似合わぬ皮肉な笑みを浮かべた。
「……と言うかぁ、私に指摘されるまでぇこれっぽっちも気づかずにいたのですかぁ?もしかして、それでぇ『こんな重いモノを軽々と持ち上げられるなんて、ついに俺の中の秘められた力が解放されたのか!』なぁんて思ってたりぃしてました?……男の方ってぇ、本っ当に単純でぇ、人生に大した悩みも無さそうでぇ、うらやましいですぅ」
 これ以上ないくらいに図星を指され、顔面にカーッと血が上るのが分かった。中二思考的カン違いを冷静に指摘されることほど恥ずかしいことはない。しかも相手はたぶん俺より年下の女子だ。
「いやいやいや!そんなこと考えてないし!つーか、重力の違いなんて、いきなり異世界に召喚されてテンパってる状態で意識できなくね!?」
「まぁ、そういうことにしておいてもぉ、良いですけどぉ……とりあえずぅ、フローラ様に言ってぇ、界聖玉の力でぇあなたの周囲だけ元の世界と同じになるようにぃ、重力調整してもらった方がぁ、良いと思いますぅ」
「へ!?でも、そうするともう、こんな風に怪力発揮したりとかできなくなるんじゃ……?」
 正直、せっかく知らぬ間にゲットしていたチートっぽい能力を、むざむざ自分から手放すのは惜し過ぎた。
「でもぉ……こちらの重力にぃ身体が慣れてしまいますとぉ、筋肉が衰えてぇ、元の世界に戻った際にぃ苦労すると思いますぅ……」
 その言葉に俺は気づく。
(……そっか。宇宙飛行士が無重力空間から地球に戻って来ると、しばらくは身体がキツいっていうあの状態が、俺にも起こるってことか……)
 俺は『地球の重力が重過ぎて日常生活もままならない俺』の姿を想像し、断腸の思いでこのチート能力を手放すことにした。
「あのさ、フローラ……頼みがあるんだけど……」
 リィサ姫と二人で事情を説明すると、フローラは驚いた顔をした後、同情するようにその形良い眉を寄せた。
「まぁ!それは大変ですわ。重力が違うだなんて……。さぞご不便をお感じになったことでしょう。今まで気づかずにいて申し訳ありません」
「あ、いや……気づかなかったのは俺も同じだし……」
 さっきのリィサ姫の『今まで気づかなかったなんて単純ですね』発言を引きずったままの俺は、フローラの謝罪にすらビクビクして声が小さくなる。
「では早速、重力調整させていただきますわ。範囲はアーデルハイド様のお手の届く範囲を基準に設定させていただくとして……重力の方は……どれくらいにしたらよろしいのでしょうか?」
「生体データからではぁ、そこまでは分かりませんからねぇ……。そもそも重力なんてぇ同じ惑星の上であってもぉ、赤道に近いかどうかやぁ標高などによってぇ微妙に違いがあるものですぅ。ここは実際に少しずつ重力を上げていってぇ、アーデルハイド様に自らの感覚で選んでもらうのがぁ良いと思いますぅ……」
「そうですわね。では……」
 言いながら、フローラがチョーカーの聖玉に指を触れる。直後、ジェットコースターで垂直落下したような、あるいはとんでもなく重い物体を身体の上に載せられたかのような感覚が俺を襲い、耐えきれなかった俺はそのまま地面に突っ伏した。
「ぐぇ……っ。フ、フローラ……っ、ちょ……っ、お、重過ぎ……」
「きゃあぁあっ!すみません!いきなり重力を重くし過ぎましたわ!!」
 フローラは蒼白な顔であわてふためき、再び聖玉に指を触れる。途端、圧迫感はフッと消え去った……と思ったら、今度は身体がどんどん軽くなっていき……とうとうフワリと地面から浮き上がった。
「ちょ……っ!フローラ!浮いてる!身体浮いてる!」
「きゃあぁぁっ!すみません!今度は軽くし過ぎましたわ!」
 この俺たちの騒動に、広場の人々もさすがに気づいてざわつき始める。
「オイ……アレって……フローラ姫様が聖玉をお使いになってるんじゃ……」
「嘘だろ!?一難去ったと思ったら、すぐにまた大ピンチかよ!?」
「誰だよ!?あのコントロールが致命的にド下手な姫様に聖玉を使わせた奴は!?」
 その声は否応なしに俺の耳に入って来て、俺はおぼろげながら事態を悟り始めていた。
 ――そう。フローラは歴代聖玉姫の中でも1、2を争う強い能力を持っている。だが、そのあまりの強力さゆえに2、3回に1回の割合で聖玉のコントロールを失敗してしまうという「それ、何てロシアン・ルーレット?」と訊きたくなるような致命的な欠点を抱えているのだ。
「ぐへぇ……っ!」
 再び重くなり過ぎた重力によって空中から地面に叩きつけられた俺は、情けない悲鳴を上げながら石畳の上に這いつくばった。だが、事態はそれだけでは終わらなかった。
「あら?あららら?ど、どうしましょう……っ!聖玉の制御が利きませんわ……!」
 フローラの首元で聖玉が妖しく明滅しだす。
「た、退避だ!総員、広場の外へ退避ぃーっ!!」
 先ほどの聖宮騎士団長が広場中に響き渡るような声で叫び、住民たちはフローラから少しでも距離をとろうとするように一斉に駆け出した。
「え……ちょ……っ、俺、動けな……っ、逃げらんね……っ」
「あらあらぁ……運が悪かったですねぇ……ご愁傷様ですぅ」
 重い頭を何とか上向かせ見上げると、この事態の元凶の一人であるリィサが聖玉の影響が及ばない安全圏――すなわちフローラのすぐそばに、ちゃっかり避難しているのが目に入った。
「ちょ……っ、コラ……っ、助け……っ」
 舌さえ重くて上手く動かせない気がする。そのうちに俺の視界の中で、広場の風景がぐにゃりと奇妙に歪み始めた。まるで周囲の景色を360度プリントした布を、少しずつ引っ張って絞り上げていくように……。
(あ……、めっちゃ既視感が……。これって、俺がこの世界に召喚された時の……)
 まるで恐ろしい吸引力を持つ掃除機に無理矢理吸い込まれていくように、景色の歪みの中心へ向かって身体がずるずると引っ張られていく。必死に石畳の隙間に指をかけ踏ん張ろうとするが、無駄だった。
「アーデルハイド様っ!」
 石畳から指が離れ、心もち地上数センチくらい宙に浮きながら歪みの中心へ吸い込まれていく俺に、フローラが手を伸ばす。俺もフローラへ向け手を伸ばそうとする、が……その手は彼女に掠りもしなかった。そのまま、俺は足先からゆっくりと歪みに呑み込まれていく。
 吸い込まれる瞬間、周りの景色が何故かスローモーションのようにゆっくりになって見えた。そしていつもより感覚の鋭くなった耳に、フローラから避難する住民たちの声が風に乗って飛び込んでくる。
「いやー、久々だな。姫様の大暴走」
「いっくら美人でもコレ(・・)があるからなー。恐ろしくって、とてもおそばにゃ寄れねぇよ」
「それにしてもあの勇者様、マジ勇者(・・)だったな。姫様に近づけば近づくほど、アレに巻き込まれるリスクも高くなるってのに。マジ、勇気あるよ。……惜しいお方を亡くしたもんだ」
(“()者”って、そういう意味だったんかい!……ってか、勝手にヒトに死亡フラグ立ててんじゃねぇ……っ!)
 その文句は口から発せられることなく、俺の視界はブラックアウトした。その後はやはり身に覚えありまくりの阿鼻叫喚の世界だった。何かに足先を引っ張られ、身体を粘土のように“みょーん”と引き伸ばされているような感覚の中、俺は一瞬『あ、やっぱ俺、死んだかも』と思った。

☆☆☆

「ぅおおぉおぉおぉわぁっ!?」
 トランポリンのような弾性のある布に思いきり沈み込んだ後、反動でポーンと宙に放り出されたかのように、気づけば俺は見覚えのあるいつもの通学路に放り出されていた。
 全身ナゾの汗で汗だくになりながら、俺は四つんばいにアスファルトにへたり込み、自分の手足をおそるおそる目視で確認していく。
(だ、大丈夫……。手足がヘロヘロに伸びてたりとか、ヘンなことにはなってないな……)
「……ってか、俺……生きてる!?……むしろ何で生きてるんだ、アレで……」
 自分が生きていることが自分でも信じられない。それくらいの壮絶体験だった。
「おぉーい、高橋?何か奇妙な声出してなかったか?」
 俺の悲鳴に気づいたらしい新が角を曲がって現れる。その様子は異世界召喚前、俺と別れた時の姿そのままだった。
「……ん?どうしたんだ、お前。コケたのか?……にしては大ゲサな悲鳴だったな」
「……新、俺とお前が別れてから、どれくらい時間が経った?」
「はぁ!?そんなの計ってねぇけど。……でもまぁ、1分……経ったか、経たないかくらいか?」
「……時間の進み方にズレがあんのか?それとも、今のは白昼夢……?」
 ぶつぶつ呟き、だが俺はすぐに白昼夢説を否定した。なぜなら俺の制服はあの広場の石畳で付いたと思しき土ボコリで汚れ、脇の下の辺りの縫い目がちょっとほつれて破れ目ができていたからだ。
「夢じゃない……。でも、戻って来ちまったんだな……」
 あんな目に遭わされたというのに、頭に浮かぶのはフローラのあの超絶美麗な眉毛の面影ばかりだった。
「えっと、高橋?マジでどうしたんだ?」
 道路の上に四つんばいになったまま遠い目で何か呟いている俺を、新が『コイツ、どうかしちまったんじゃないのか?』と本気で心配そうな顔で見つめてくる。
「……なぁ、新。俺がお前と別れてたこの数十秒の間に、異世界に召喚されて戻って来たんだって言ったら、お前、信じる?」
 新は俺のその問いに、しばらくの間黙り込んで何か考えているようだった。
「……小学校以来の親友のお前の言うことだから、信じてやりたいのは山々なんだが……俺、自分の目で見たモンしか信じない性質なんだわ」
 真顔でそう答えてくる親友に『あぁ、コイツってそういうヤツだよな』と心の中で呟きながら、俺は再びあの世界へ思いを馳せる。
(もう、あの世界へは行けないんだろうか?もう、あの美しい眉毛には会えないのか?……フローラ……)
 もう二度とあの世界へは行けないかも知れない、もう二度とフローラに会えないかも知れないと、俺はセンチメンタルな気分に沈んでいた。
 ……『もう二度と無いかも』と思っていたその“再会”は、この後意外なほど早く訪れることになるのだが、この時の俺は、まだそれを知らない。

☆☆☆

 ――これが、俺と彼女のファースト・コンタクトだった。  平凡な中二男子が、今までに想像もできなかったレベルの理想の女子と出会って、しかもそれが異世界のお姫様で、性格も見た目も申し分ない、むしろ俺にはもったいないくらいの相手で、おまけにこちらに対してそれなりに脈がありそうなのに……その相手が、自らの意思とは関係なくトラブルを引き寄せまくり、周囲を強制的に災厄と混乱の渦に巻き込んでいくブラックホールのような女の子だった場合、何をどうすれば“正解”だったのだろう……。
 だが、あれだけの目に遭わされて、それでも尚あの美麗な眉毛を恋しく思ってしまった時点で、俺の運命は決まってしまっていたのかも知れない。
 とにかく俺の、思い返すと『よく今まで無事に生きて来られたなぁ……』と思わず遠い目になってしまうほどの波乱の人生は、こうして幕を開けたのだった……。

エピソード エンド 
 
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このページは津籠 睦月によるオリジナル・ネット小説(異世界ファンタジー)
ブラックホール・プリンセス」の本文ページです。
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