第3話:マスコットキャラは勇者が兼任
――猫はいいよなぁ。居るだけで可愛がられるし、一日中ゴロゴロ寝てればいいんだから。
……昔の俺は、朝から平和に日向ぼっこなどしているご近所のニャンコたちを眺めながら、そんな風に思っていた。しかし、今は違う。
あのネコたちにだって、きっといろんな苦労があるはずだ。端から見ているだけでは決して分からない、当事者にならなければ知ることのできない苦労というヤツが……。
これは、そのままフツーに“ただの人間”をやっていれば知るはずもなかったそんな当事者としての苦労を、ナゼか強制的に知る羽目になってしまった俺の、リアル中二時代のエピソードである……。
それは俺が生まれて初めて異世界に召喚され、超絶美麗眉毛の美姫・フローラと出逢い、思いがけないハプニングで地球に帰還した、その夜のことだった。
制服を埃で汚した上、脇の下を破いてしまい、お袋に軽くキレられた俺は、罰として食後に大量の皿洗いをさせられ、その後、風呂に入ってやっと人心地ついたところだった。
(あ〜ぁ……せっかく夢の異世界召喚を初体験できたってのに、一日も経たないでこっちに戻って来るなんてアリかよ……。もったいな……)
この時点では、まだ再び召喚されるかどうかなどサッパリ分からず、俺は『もしかしたらもう二度とあの世界に行けないんじゃ……』と、かなりセンチメンタルかつメランコリックな気分に沈んでいた。
(フローラ……。すっっっごい理想的な形の眉毛だったよな……。あんな美形状、もう二度と見られないんだろうんなー……。せめて動画……いや、静止画でもいいから保存できていれば……)
もう今さらどうにもならないことばかり頭の中でぐるぐると考えながら、俺はシャワーの蛇口をひねる。いつものように熱い湯を頭から浴びようとして……俺はすぐに異変に気づいた。
普通なら雨のようにシャワーヘッドから真っ直ぐ落ちてくるはずの湯が、途中でぐにゃりと横向きに曲がり、俺の後方へと流れていく。思わず水滴の行方を追うように後ろを振り返り、俺はそこに普通ならあり得ない――だが俺にとってはあまりにも見覚えのある例のアレを見つけた。
シャワーから溢れる湯さえも巻き込み、空間を渦巻き状に歪ませて現れた、一本の華奢な腕。相変わらずホラーなビジュアルだが、一点のシミもなく、なめらかに白いその手は、間違いなく異世界の美姫・フローラのものだった。
(えぇぇー……。昨日の今日どころか、今日昼の今夜でもう再召喚かよ。早くね?いや、嬉しいけど)
予想外の再会(?)、しかも自宅の風呂場にフローラの手というシュール過ぎる光景に、俺の思考はプール後の授業の半居眠り状態くらいのボンヤリさにまで低下していた。だから、一番重大な事実に気づくのに遅れた。
(いや、よく考えたらそれどころじゃない!今、俺、完っ全に真っ裸だぞ……!今はマズい!つーか、何でよりによってこのタイミングなんだよ!?)
「あ、あのさーフローラ……。気持ちは嬉しいし、俺もそっちに行きたいのは山々なんだけどさ……。もうちっとばかし待ってくんね?」
ダメ元で“手だけフローラ”に話しかけてみる。だが、その手は引っ込むどころか俺を手探りで探そうとするようにワサワサと蠢きだす。
(あぁ〜っ……やっぱ声は届かないのか……)
絶望的な気持ちに襲われつつも、俺はとにかく手だけフローラに捕まらないよう匍匐前進のポーズをとる。
このまま全裸で異世界召喚などということにでもなれば、せっかく芽生えそうな恋も大炎上して燃え尽きかねない。どころか、王女に無礼を働いた罪か何かで牢にぶち込まれたり、下手すると何らかの刑に処されたりもしかねない。
(とにかく今は一着でも多くの服を……っ、ってか、せめて下だけでも……っ!)
こうして勇(気ある)者を捕まえようとする王女(の手)と、異世界召喚から必死に逃れようとする俺、という、よく分からない構図が生まれたわけだが……
空間をねじ曲げられた風呂場の床は絶妙に歪みナナメっていて、真っ直ぐ脱衣所へ向かいたくても思うように身体が進まない。気づけば俺は知らず知らずのうちに自ら歪みの中心――フローラの手へと近づいてしまっていた。
「……ひッ!?」
フローラの指先が俺の濡れた腕に触れた……と思ったら、次の瞬間には手首を鷲掴まれ、か弱い姫の力とは到底思えぬ凄まじい力でナゾの異空間にひきずり込まれていた。
「ま、待……っ!今はマズいから!お互い気マズくなるだけだから!」
いくら叫んだところで召喚は止まらない。相変わらずの阿鼻叫喚の後、向こうの世界へと引きずり出される……
「……ぅ……ふにゃ……っくしょいっ!」
その瞬間、真っ裸で異世界到着……という羞恥心よりも、濡れた身体が外気に触れたことによる生理現象の方が先に来た。
何だかいつもと違うヘンなクシャミだな……と思いながら目を開けると、そこには例の超絶美麗眉毛……じゃなくて、異世界の美姫・フローラの姿が……。
(お、終わった……。俺の異世界生活、こんなことで終了なのか……)
俺は破滅フラグ成立のお知らせを聞いてしまったような気分で打ちひしがれる。
だが、フローラは顔を赤らめることも嫌悪に顔を歪めることもなく、予想外の言葉を口にしてきた。
「まぁ!ニャンコさん……ですの?私、確かにアーデルハイド様を召喚したと思いましたのに……。不思議なこともあるものですわ……」
(……は!?ニャンコ……!?)
そこで俺はようやく気づく。いつもと視点の高さや身体の感覚が違うことに……。
ぎょっとして見下ろすと、俺の全身はいつの間にか、ひどく見覚えのあるモフモフの毛に覆われていた。腹の辺りは白、脇っ腹から脚にかけては濃淡の違うオレンジがかった茶色の毛がしましまの模様を描いている。
(こ、これはまさか……)
おそるおそる目線を上げると、そこにはフローラの華奢な手のひらより、さらに小さくほっそりとした、紛れもない猫の手があった。
「ニャン……コだとおぉーっ!?」
わけも分からずいきなり猫の姿にされれば、普通誰でもパニックにもなると思う。俺も当然のことながらパニックで頭の中身がホワイト・アウトし、気づけばフローラの手を振りほどいて逃げ出していた。
「まぁっ!待ってくださいな!異世界のニャンコさんが無闇に動き回っては、何があるか分かりませんわ!危険ですわ!」
フローラの声が背後から聞こえていたが、トイレ・ハイの猫状態で衝動のままに駆け抜ける俺の耳には入らない。
ただでさえ異世界の重力の違いで身体が軽くなっている上、時速48kmにも達すると言われる猫の脚力が加わった俺は、弾丸のようなスピードであっと言う間に界聖宮の敷地の端の辺りまで到達していた。そしてそこで、ある人物と出合い頭にぶつかってしまったのだった。
「きゃあぁぁ〜っ!痛いのですぅぅ……」
「い、いってぇ……」
「……あらあらぁ?ヒトの言葉を話す猫さんなんて、あり得ないのですぅ……。あなたぁ、ひょとしてぇ……異世界勇者のアーデルハイド・コータロー・タカハシさん、ですかぁ……?」
のんびりした口調ながら、なぜかいきなり俺の正体を見抜いてきたその人物は、俺にとって見覚えのあり過ぎる……しかもあまり良くない印象の残っている相手だった。
「そういうお前は……赤ずきん姫……じゃなくて、リィサ・何とか……!」
「リィサ・ロッテ・リーストですぅ。“お前”だなんて失礼しちゃいますぅ。ウチの国の人が聞いていたらぁ、不敬罪で牢送りになるところですよぉ」
相変わらず、幼い見た目と、のほほんとした口調にそぐわず、言っている内容がえげつない。
(この女……実は絶対に腹黒だろ……)
まだ直感でしかなかったが、この時点で俺はリィサの本質を的確に見抜いていた。
「それにしてもぉ……やっぱり人外の姿に変身してしまったのですねぇ……。きっかけは何でしたぁ……?クシャミとかアクビとかしましたかぁ?」
「『やっぱり』って何だ!?『やっぱり』って!あんた、俺がこんななった理由が分かるのか!?」
不敬罪という言葉にビビり、一応『お前』を『あんた』に改めながら、俺は問う。
「はいぃ……。まぁ、推測ではありますがぁ……。先日私がぁ、命聖玉を用いてぇ、あなたの言葉が通じるようにした際ぃ、ちょっとイレギュラーな事態が発生してしまったようでぇ……」
リィサは悪びれた様子もすまなさそうな表情も一切見せず言葉を続ける。
「私もぉ……後であなたの生体情報を確認していた時にぃ、やっと気づいたのですがぁ……異世界人に命聖玉を使用したせいなのかぁ……あなたの遺伝情報や体組織はぁ、今とっても不安定な状態にあってぇ……ふとしたきっかけで変質したり組み変わったりしてしまうようなのですぅ……」
「は!?何だソレ!?そんなのあり得んのかよ!?ってか、何でそれで猫になるんだ!?」
「人体にはぁ、現代でもまだ解明されていない神秘がぁ、いろいろあるものですぅ。たとえばヒトとチンパンジーのDNAにはぁ、たった1.6%の違いしか無いのですぅ。グダグダになったぁ、あなたのDNAや体組織が何割かでも変化すればぁ、人間以外の何かになってしまったとしてもぉ不思議はないのですぅ。猫さんになったのはぁ……………………なぜでしょうねぇぇ?私の趣味が影響したとかぁ、ですかねぇ?」
「いや、何言ってんのかさっぱ意味不明なんだが、つまり原因はあんたってことだな!?」
「私のせいじゃないですぅ。私はただ頼まれてぇ、親切心からあなたの言葉が通じるようにしてあげただけですのにぃ……。ヒドいですぅ」
わざとらしい泣き真似にイラッとしたが、ここで責めてまた不敬罪など持ち出されてはたまったものではない。
「……で、あんたなら俺を元に戻すことができんのか?」
「えっとぉ……」
リィサは服の中からゴソゴソと例の鍵の形のペンダントを取り出し、俺の頭上にかざして、しばらく無言になった。
「……どうやら、クシャミをすれば元に戻るようですぅ。と言うか、クシャミをするたびに猫さんの姿と人間の姿と入れ替
わるようですぅ。面白い体質になりましたねぇぇ……」
「いや、面白がんなよ!?あんたのせい……あ、いや。そんなんじゃ、おちおちクシャミもできねーじゃんかよ!あんたの力でこうなったなら、あんたの力で元に戻せないのか!?」
俺の問いに、リィサはしばらくポヤーッとした顔で何かを考えていたが、やがてのんびりとこう言った。
「異世界人にぃ聖玉の力がどう作用するのかぁちゃんと解明できていませんのにぃ、さらなる聖玉使用はぁ、オススメできないのですぅ。まぁ、やってみてもぉ、良いですけどぉ……今度は猫さんどころかぁ、既存の生物の何れともぉ似ても似つかないぃ、キメラ的なナニかになってしまうかもぉ知れませんけどぉ……よろしいんですねぇぇ?」
「いやいやいや!エグいわっ!そんな二択だったら猫の方がマシに決まってるだろ!?」
「いいえぇ、何もぉ失敗すると決まったわけではぁありませんしぃ、もしキメラ的なナニかになってしまったとしてもぉ、その時は私がぁ責任を持ってぇ、うちの秘密の地下迷宮で飼ってあげますのでぇ安心してくださいぃ」
「いやいや、それのどこら辺に安心があるってんだよ!?つーか、秘密の地下迷宮って何だ!?あんたん所、聖玉の力といい環境といい、何もかもが恐過ぎるわっ!」
「失礼しちゃいますぅ。聖玉の力なんてぇ、どこの国のものも似たり寄ったりで“えげつない”ものですぅ。あなただってぇ先日フローラ王女の聖玉のえげつない力の餌食になったばかりではぁありませんかぁ」
頬をふくらませてむくれるリィサに、俺はハッと“不敬罪”の三文字を思い出す。
「……と、とにかく、クシャミすれば人間には戻れるんだな!?」
「はいぃ。でも、よろしいんですかぁ?あなた、今、全裸のようですけどぉ……。お洋服、どうされたんですかぁ?」
茶トラ模様の毛皮以外は一糸まとわぬ俺の姿をまじまじ眺め、リィサが指摘してくる。
(そ、そうだったぁー!今人間に戻ったら、確実にマズいことになる!何とか服を調達しないと!)
アワアワする俺をリィサはしばらくの間、ナニを考えているのかよく分からないボンヤリ顔で見ていたが、ふいに思いもよらない提案をしてきた。
「あのぉ……せっかく猫さんになったのでしたらぁ、その姿を利用してぇ、ちょっと調べ物に協力してもらえませんかぁ?」
「は!?何でだよ!?あんたに手を貸して、俺に何の得があるんだよ!?」
「得があるかはぁ分かりませんけどぉ……あなたの大好きなフローラ王女のためになりますぅ」
「は!?フローラの?あんた、一体何を調べて……」
言葉の途中で、リィサがひょいと俺を抱え上げた。そのまま俺の猫耳に唇を寄せ、ひそめた声で秘密の話を語りだす。
「実はぁ、先日あなたが捕まえましたぁ元・犯罪組織のボスなんですがぁ、いろいろと不審な点がありましてぇ……。実はあのボスを陰で操ってぇフローラ王女に危害を加えようとした黒幕がぁ、他にいるのではないかとぉ……」
「は!?何だソレ!?あのボス、ただの酔っ払いじゃなかったのか!?」
「フローラ王女の能力に対する恐怖がぁ本能レベルで染みついているこの国の住民がぁ、酒に酔った程度でフローラ王女に闘いを挑むのはぁ、ヘンなのですぅ。それにぃ、あのボスの手足の痙攣とぉ、特徴的な眼球振盪……。前に私はぁ、診たことがあるのですぅ……」
そこでリィサは躊躇うように一旦言葉を切り、俺の目をじっと覗き込んできた。
「まだ推測の段階ですのでぇ、他言無用に願いますがぁ……あれは、洗脳……いぃえ、心を作り変えられた人間のぉ……症状なのですぅ……。この世界でぇ人間の心を作り変えるような力を持つものはぁ、ただひとつ……八聖玉のうちの一つ、心聖玉のみ、なのですぅ……」
原因がどの聖玉なのか分かっているなら、その聖玉の持ち主を当たれば早いと思うのだが、事はそう単純には行かないらしい。
「一国の姫をぉ、何の証拠も無くぅ、犯罪者扱いなんてしようものならぁ、国際問題に発展しかねないのですぅ。ですのでぇ、当面の間はぁ、敵が再びぃ何かを仕掛けて来ないかぁ、様子見ですねぇ……」
「で、再び襲って来たところを現行犯で捕まえたり、言い逃れできないような証拠を攫むってことだな?」
「えっとおぉ…………まあぁ、そういうことぉ、ですかねえぇ……」
リィサの言葉は何だか妙に歯切れが悪い。……まぁ、テンポが悪いのは元々なんだが。
「先日のボスの狙いはぁ、明らかにぃ、フローラ王女でしたぁ。敵が再びぃフローラ王女を狙って来る可能性はぁ、否定できません……。でもぉ、こちらがソレを警戒してぇ、予め警備を強化したりなどするとぉ、相手もソレに気づいてぇ、襲撃自体をぉ、取り止めかねません。そこでぇ、あなたの出番ですぅ」
「なるほど。この愛くるしいニャンコ姿で油断させといて、いざとなったら例の怪力でフローラを守るってことだな。よっしゃ、把握した!任せとけ!」
「ええぇ。まぁ、そういうことですぅ。フローラ王女はぁ動物好きですしぃ、一国の王女としての財力と権力をぉ持っていますのでぇ、ちょっとくらい珍しい猫さんがいたとしてもぉ、それほど不審には思われないはずなのですぅ。いっそのことぉ、新種の激レア猫さんだから王女に献上されたとでもしておけばぁ、言い訳としてバッチリなのですぅ」
「は……?新種?激レアって、何が?俺、たぶんフツーの茶トラ猫だけど?」
そもそも人間が変身して猫になっているという時点で全然フツーではないのだが、この時点ではただ『毛の模様的には珍しくも何ともない』という意味で、俺はそう言った。
「あなたの世界ではぁ普通なのかも知れませんけどぉ、こちらの世界では全然普通ではないのですぅ。なぜならぁ、この世界の猫さんはぁ、アレが一般的ですからぁ……」
そう言ってリィサは俺を抱っこして歩いたまま、庭園の片隅を指差した。そこにはノラ猫か何かと思しき一匹の猫が、のんびり寝そべり毛づくろいをしていたのだが……
「あ……青緑色の金属光沢……!?」
形状は地球の猫と全く変わらないのに、毛の色だけが明らかにおかしい。まるでクジャクの羽毛の一部のようなメタリックなブルーグリーンだ。
「……重力だけじゃなく猫の毛色まで違うのか。さすがは異世界……」
「ですねぇぇ……。私もビックリですぅ。こぉんな素朴で地味……あ、いえぇ、落ち着いた色合いの猫さんがいるなんてぇ……。こちらの世界の猫さんはぁ、ブルーグリーン系以外にもぉレッド系やゴールド系、シルバー系などいますけどぉ……みぃんな派手でキラキラしててぇ、“動く宝石”と呼ばれていたりぃするのですぅ」
「悪かったな!キラキラしてなくて!地味で!」
「いぃえぇ……これはこれでワビサビ的な味があってぇ良いのですぅ。特にぃ、このピンク色の肉球なんてぇ何だかお菓子みたいでぇ美味しそうなのですぅ。こちらの猫さんは黒い肉球がぁほとんどですからぁ」
言いながらリィサは許可も無く勝手に人の……あ、いや猫の肉球をぷにぷにしだす。
「あ、ちょっ……コラ!揉むな!ちょっとしたセクハラだぞ、コレ!」
事前承諾無しの肉球モミモミに猛抗議していると、向こうからぱたぱたと可愛らしい足音が聞こえてきた。
「ニャンコさ〜ん!どこへ行ってしまいましたのー?」
「フローラだ!」
「あなたを探しているようですねぇ。丁度良いのでぇ、このままフローラ王女にぃあなたを預けますぅ。……ちゃあんと猫さんのフリ、しててくださいねぇ」
「おう!任せとけ!」
猫のフリなんて簡単だ。適当にニャンニャン言ってゴロゴロ寝転がっていればいいんだから……この時の俺はまだそんな風に、猫も演技もナメていた。
芝居経験もロクに無いド素人が、猫などという人外の役を、しかも劇や映画のワンシーンのような区切られた時間の間だけでなく24時間演じ続けなければならないという困難を、この時の俺はまだ、サッパリ理解できていなかったのだ。
「……と言うワケでぇ、この猫さんはぁ、しばらくぅ貴女の元でぇ保護してあげてぇ欲しいのですぅ」
「それはよろしいのですが……本当に元の世界へ帰してあげなくてもよろしいのでしょうか?」
「それはやめておいてあげて欲しいのですぅ。タダでさえぇショックの大きい世界間移動をぉ、時間を置かずにぃ立て続けにするなんてぇ、この猫さんのダメージが大き過ぎるのですぅ」
『異世界の猫なら元の世界へ帰すべきでは』と常識的な判断をしてくるフローラを何とか言いくるめ、リィサは俺をフローラの腕に押しつけた。
「では、このニャンコさんは私が責任を持って預らせていただきますわ」
フローラはリィサの手から俺を受け取ると、そのラピスラズリのような濃紺の瞳をキラキラさせて俺の全身を眺めてきた。
「それにしても珍しい色と模様……。なんてエキゾチックなニャンコさんなのでしょう。背中はキャラメル色の縞模様ですのに、肢の先とお腹は雪のように真っ白なのですわね……。………………あら?あなた、男の子でしたの?あまりに愛らしいので、女の子かと思っていましたわ」
「うぎゃ……っ!?み……っ、見るなーっ!!」
フローラの視線が何に向けられているのかに気づき、俺は思わず絶叫してフローラの腕から飛び降りていた。
ボディがニャンコに変わっている以上、例のアレもヒワイさのカケラもないフワフワのポンポン状ではあるのだが……そうは言っても『できれば好意を持たれたい』などと思っている女子に、まじまじとソコを凝視されるのは羞恥プレイが過ぎる。
「えっ!?このニャンコさん、今、人間の言葉を話しました?」
フローラが呆気にとられた顔で呟く。
(し、……しまったーっ!思いっきり普通に人語を叫んじまったじゃん、俺!)
「いっ……いいえぇ……気のせいだとぉ思いますぅ。きっとぉ、異世界の猫さんなのでぇ、鳴き声もぉ、こちらの猫さんたちとぉ、ちょっと違うのだとぉ思いますぅ。ね?猫さん」
リィサが表面上はニコニコした顔でフォローを入れながら、フローラの死角から『あなたぁ、何をぉいきなりぃドジ踏んでるんですかぁ?』とでも言いたげな感じで俺のシッポの先を踏みつけてきた。
「ミ、ミルニャー。ミルミルニャー」
俺はあわててソレっぽく聞こえるように猫の鳴き真似をしてみせる。フローラは訝しげな顔をしながらも、何とか納得してくれた。
「本当ですわね。変わった鳴き声ですわ」
「ではぁ、そういうことでぇぇ……その猫さんのことはぁ、お任せしますぅ。それではぁ〜……」
何が『そういうこと』なのかはサッパリ不明だったが、リィサはそう言うとそそくさとその場を立ち去ってしまった。
フローラはしばらくの間ニコニコとリィサの後ろ姿を見送っていたが、その姿が完全に見えなくなると、ふいに、それまで見たことのないような鋭い目で俺を見てきた。
(な、なんだ!?この目……っ!まさか、正体に気づかれたのか!?)
ギクリとする俺から一瞬視線を逸らし、フローラはそのままキョロキョロと、辺りに人がいないか窺っているようだった。
そしておもむろに……いや、急激に、俺に向かって突進して来た。
「…………っニャンコさんっっっ!!」
「ぐげぶッにゃ」
いきなり抱え上げられギュウギュウに抱き締められて、思わず口からヘンな声が出る。
「あぁぁんっ!なんって可愛らしいのでしょう!ふわふわのモフモフですわ!」
そのまま激しく頬ずりされる。
美姫に抱きつかれ頬ずりされると言えば通常はただのご褒美なのだが、小さな猫の身で数倍の体重はあろうかという人間に持ち上げられ、身体をキツく締めつけられた挙句に激しく上下に揺さぶられるという状況を、ちょっと想像してみて欲しい。とてもフローラの感触や甘い香りを楽しんでいるどころではない。
「ヤ、ヤメニャー!イヤニャー!」
人語を話すわけにはいかないので、何とか『嫌がってるっぽく』聞こえるよう猫の鳴き真似をしてみる。だが……
「まぁ!先ほどとはまた違った鳴き声ですわ!様々なバリエーションがあるのですわね。可愛い鳴き声ですわ。もっといろいろ聞いてみたいですわ!」
(つ……通じてない……だと……!?)
「私、動物を飼うのがずっと夢でしたの!あなたのような可愛いニャンコさんをお世話できるなんて感激ですわ!」
(え……さっき見たメタリックなノラ猫は飼ってやんないのか?)
フローラの“ペット飼えない事情”についてまだ知らなかった俺は、そんな素朴な疑問を抱いた。だが、その疑問に対する答えはすぐに判明する。
「姫様。そのお手に抱えていらっしゃるのは、何でしょう?」
背後から聞こえた、いかにも厳しそうな女の声に、フローラはビクッとして俺を取り落とす。
「痛……ッニャ」
思わず人語を零してしまい、あわてて『ニャ』を付けて誤魔化す。だが流石に語尾にニャだけではキビシかろうと、おそるおそる人間二人を見上げた。が、幸い二人はお互いだけに集中していて俺のウッカリ発言など気にしていないようだった。
「……変わった毛色ですが、猫、には間違いありませんね?」
「えっと……その……違うんですのよ、フェリア。このコはただのニャンコさんではなく……」
「私、以前にも申し上げたはずですが?見た目にどんなに愛らしくとも、動物というものは、人の身に害となる雑菌を有していることがございます。それに猫には爪も牙もございます。この世に他に代わる者なき尊き聖玉姫の身に万が一のことがあれば、女王陛下にも、この国の民にも顔向けができませんわ」
口調こそ丁寧だが声に皮肉とイヤミをこれでもかと盛り込んでくるその女は、金属フレームの眼鏡をかけた20代半ばほどの知的美女で、以前この聖玉宮で見た“レトロ・ナース風お姉さん”と似た格好をしていた。だが、以前見た彼女より服の装飾が増え、数段“偉そう”な感じだ。
「フェリア!私の話を聞いてくださいな!このニャンコさんはどうしても私がお世話をしなければならない異世……あっ、いえ、その……リィサ姫からの預り物なのですわ!」
(今、“異世界の猫”って言いかけて止めたよな?誤魔化したってことは、異世界召喚のことは聖玉宮の人間にも秘密ってことなのか?)
だがフローラのそのとっさの誤魔化しは、ますます事態をややこしい方向へ持って行ってしまった。
「まぁ!リィサ姫様ですって!?あのキメラだの何だのという得体の知れない生き物を大量に飼育しているというお噂の……?そのような方からお預かりした猫など、ますます姫様のおそばに置いておくわけには参りませんわ!」
「そんな……っ、困りますわ!それでは、このコのお世話は一体誰がすると言うのです!?」
「それは私ども女官一同がしっかり務めさせていただきます。聖玉姫猊下の所有物を管理するのも女官の大切なお役目の一つですから」
フェリアと呼ばれたその女は、そう言うとヒョイと俺を抱え上げた。
(……ん?んん?何か、フローラの時と安定感が段違いだぞ。身体が全然キツくない……)
「待ってください!ケガなどせぬよう、気をつけますから、そのニャンコさんを返してください!」
「いいえ。気をつける・つけないの問題ではありません。動物というものは、どんなに気をつけていても、ふとした機嫌や本能で飼い主を攻撃してくるものなのですから」
フェリアはそうしてウォーキングの見本のような美しい姿勢で……しかし、思わず『競歩の選手かよっ!?』と疑いたくなるほどの足の速さで俺を運んでいく。
後ろからフローラが『お願ぁい!連れて行かないでぇ!』という感じで必死に追って来るが、フェリアは振り向くことさえせずに、それを振り切った。
そのまま問答無用でフェリアに連れて行かれた先は……
(……何だ、ココ。病院のナース・ステーションか?それともハーレムか?)
広々とした清潔そうな部屋の中には、例のレトロ・ナース風の裾の長いオフホワイトの衣装に身を包んだ十数人の女たちがいた。下は10代から上は30代と思しきその女たちは、こちらに気づくとキャーッと歓声を上げて群がってきた。
「女官長っ!何ですか、その珍しい色のネコちゃんはっ!」
「フローラ姫様がリースト国の王女様からお預かりになった猫だそうです。今日から私たちでお世話をすることになりました」
フェリアの口調はフローラに対してのものとは打って変わって柔らかい。顔からも冷たさや厳しさが消えて、まるで別人のように優しげに見えた。
「あぁ。姫様のお手元に置いておくのは危険ですもんねー。いつ例の“歪みの穴”が発生するか分かりませんもん」
「人間だったら予め警戒して距離を取るとかできますけど、動物じゃ無理ですもんね。ウッカリ吸い込まれでもしたら可哀想ですもんね」
聖玉宮の女官である彼女たちの会話により、俺は思いがけずフローラの“ペット飼えない事情”の真実を知ることになった。
(ひょっとして、さっきの『猫が聖玉姫にケガさせるとマズいから』って理由は、フローラが本当の理由を知って傷つくのを防ぐための、この人なりの気遣いだったりすんのか……?)
真意を探ろうとするようにフェリアの顔を見上げていると、女官の一人がおそるおそると言った様子で発言してきた。
「あのー……フェリア様。その猫、本当に大丈夫なんですか?あのリィサ姫様からの預り物、なんですよね?見た目は可愛らしくても、油断してるといきなり真ん中からパックリ割れて、中から得体の知れない触手状のナニカが現れて、あまつさえ我々を襲って来たりとか……しませんよね?」
フェリアはその発言に、一瞬じっと俺を凝視してきた。が、すぐに笑って否定する。
「大丈夫でしょう。いかにリィサ姫様が命聖玉の聖玉姫でいらっしゃるとは言え、キメラの生成はもう何百年も前に聖玉姫協定で禁じられています。このように若そうな猫がキメラであるはずがありませんわ」
(いや、何百年か前にはキメラ創られてたんかい!?しかも、あの赤ずきん姫の持ってる聖玉の力で?……やっぱあの女、ヤバいヤツなんだな……)
改めてしみじみとリィサの危険性に思いを馳せていると、フェリアは女官に指示してテーブルの上に毛布を置かせ、その上に俺の身体をそっと下ろした。
「それに、ホラ。毛色は確かに変わっていますが、どこからどう見ても、ごく普通の可愛い猫ちゃんではありませんか」
言いながら、おもむろにフェリアはその細く長い指先で俺の頭や喉や耳の辺りを撫で始めた。
最初は単に「あ、ナデナデされてるな」くらいの感じだったのだが、その絶妙にゆっくりとした焦らすような触り方に、だんだんと身体の奥に妙な感覚が芽生え始める。
(な……何だ!?この感覚……!何か、身体がムズムズして……ザワザワして……何かが……喉の奥から何かが出て来る……!?)
自分でも何が何だか分からない衝動に流され、気づけば俺は猫化した本能のままに喉をゴロゴロ鳴らしていた。
「ウフフフ。やっぱり見た目が少し違っていても、中身は他の猫ちゃんたちと同じですわね。ココがキモチ悦いのでしょう?ほ〜ら、もっとあちこち撫でてあげますわよ。もっとゴロゴロ甘えてくれてよろしいのですわよ」
フェリアはどこかSっ気を感じさせる喋り方で、やけに楽しげに俺を撫で続ける。
(この女……さては猫の扱いに慣れてやがるな……?俺、完っ全に弄ばれてねぇ?悔しい……っでも、ゴロゴロ言っちまう……!)
気づけば俺は『もっと撫でて』とばかりに、お腹を見せたり横向きになったり、毛布の上を自らクネクネ転げ回っていた。
「きゃーん!可愛い!女官長!私も!私も触りたいです!」
「ズルいわ!私にも撫でさせて!」
フェリアだけでも手一杯な感じなのに、四方八方から女の手が伸びてきて、身体中を撫で回される。
(ちょ……待……っ!もうゴロゴロが……っ、ゴロゴロが追いつかねぇよ!)
こうしてレトロ・ナース風女官の群れに全身くまなくマッサージされまくった俺は、気づけば身体中の力という力が抜けきった、ぐでんぐでんのフニャフニャ状態にされてしまったのだった……。
(……いや、つーかゴロゴロしてる場合じゃなくね!?)
俺がフニャフニャ状態から我に返ったのは、女官たちの休憩室に連れて来られてから、たぶん30分以上経ってからのことだった。
さすがにほとんどの女官は通常業務に戻っていたが、交替で休憩している女官たちがたまにナデナデしてくれたり、「カワイイ」「かわいい」と褒めちぎってくれたり、おやつにニボシらしきものをくれたりとチヤホヤしてくれるので、すっかりのんびりくつろぎモードに入ってしまっていた。
(俺、フローラをそばで守らなきゃならねぇのに!とにかくフローラの所へ戻らないと!)
俺はすっかり定位置になってしまっていた毛布の上から飛び下り、元来た方角へ向かう。
……が、そこには猫の手ではどうにもならないドアという名の巨大な障害物が立ちはだかっていた。
(と……届かねぇぇ……っ。無理矢理伸びあがっても全然ドアノブに触れねぇ……っ!つーか、さすが聖玉姫の宮殿の扉……。メチャクチャ重そうで猫の力じゃ頑張っても開く気がしねぇ……)
自力で開けることを早々に諦めた俺は、脳をフル回転させ、これまで数々の猫動画で見てきた“こういう時の猫のおねだりパターン”を実践してみることにした。
「ニャアァァァ……」
(必殺・ドアをカリカリしながら可愛く鳴いてアピール作戦だ!)
高級そうな木の扉の下部をカリカリ引っ掻いて意味ありげに女官の方を振り向く。すると室内にいた女官がすぐに駆け寄ってきた。
「キャー!ちょっと、ダメよ!扉にキズなんてつけちゃ、女官長に叱られちゃうじゃない!」
有無を言わさず抱え上げられ、ドアから遠ざけられる。
(いや、イタズラしたわけじゃないって!俺はここから出たいんだよ!出してくれよ!)
「ニャー!ニャー!出セニャー!」
頑張って猫の鳴き真似で訴えてみるが、やはりフローラの時と同じで全く通じない。
「……鳴き声まで普通の猫と違うのね。本当に気味が悪いわ。こんな得体の知れない生き物を世話しようだなんて、この国の連中って本当、頭がおかしいんじゃないの?」
たぶんひとり言だったであろう、そのボソッとした呟きは、しかし、彼女に両腕を掴まれ、まるで“捕えられた宇宙人”状態で連行されている最中の俺にはバッチリ聞こえていた。
(……へ?『この国の連中』……?その言い方、まるでこの女が他所の国から来たみたいな……)
よくよく観察してみれば、この女官、さっき俺のことを『真ん中からパックリ割れて…』うんぬん発言してきた女官だ。
彼女は俺を乱暴にテーブルの上に下ろすと、辺りをキョロキョロ見回した。
この時、休憩中だったのは彼女一人らしく、室内には他に誰もいなかった。それを確認すると、彼女は襟の詰まった女官服の首元からそっと何かを引っ張りだした。
それは、一見、金のロザリオのように見えた。だが、よく見ると違う。
――それは金色のドラゴンのモチーフのペンダントだった。躯に対して垂直に広げられた翼が、ちょうど十字架のような形になって見えるのだ。
女官はペンダントの表面を大切そうにそっと撫で、深いため息をついた。
「私、こんなヘンな生き物の世話するためにここに来たんじゃないのに。……姫様。私、いつまでこんな所に居ればいいんですか?」
泣き言のように小さく呟き、彼女はペンダントを再び服の中にしまった。
(……『姫様』?それって、フローラのこと……じゃないっぽいよな?この女、何者だ?ひょっとして、この女が心聖玉とやらの聖玉姫のスパイで、フローラに危害を加えようとしてるのか?)
警戒心を抱かれにくい猫の姿のおかげで、俺は特に自分から何かしたわけでもないのに、なりゆきでアッサリ怪しい人物を発見できてしまった。だが、ここからが問題だった。
(早く、赤ずきん姫の所へ行って、アヤシイ女を見つけたって教えないと!)
……そうは思っても、相変わらずドアという大きな壁が行く手を塞いでいて、部屋から出ることすらできないのだ。
そのうちに怪しい女官も休憩を終えて部屋を出て行ってしまった。俺は女官たちが部屋を出入りするスキを狙って何とか外へ出ようと脱走を試みたが、そのたびに『コラぁ!お外は危ないんでちゅよー!』とナゾの赤ちゃん言葉で叱られ、元の位置に連れ戻されてしまう。しかも、さすが聖玉姫の宮殿だけあって、戸締りはどこも厳重で、ウッカリ鍵をかけ忘れた窓の一つも見つからない。
こうして為す術もなく時は過ぎ、俺は夕食にベージュ色でドロリとしたペースト状のナゾ物体を与えられ(ちなみに味は魚介系で意外と美味だった)、大きめの藤カゴに極上のふんわりクッションをたっぷり詰め込んだ即席猫用ベッドに寝かされて、一匹室内に放置されることとなってしまった。
今にして思えば、クシャミをすれば人間の姿に戻れるのだから、女官のいなくなったこのタイミングで人間に戻り、普通にドアを開ければ良かったのだが……どうも“おなかいっぱい”状態で快適な寝床の中にいる、というのは人間の理性や思考能力をダメにしてしまうものらしい。
気づけば俺はうたた寝状態に突入していた。そしてフッと目が覚めたのは、おそらく真夜中……それも、「守らなければ」と思っていた当のフローラに起こされてのことだった。
「…………さん……ニャンコさん……っ。こんな所にいましたのね」
「……ふにゃむ……っぎゃッ!?」
ウトウト状態から急激に高い位置まで持ち上げられ、押しつぶすような勢いで抱き締められ、俺はギョッとして意識を覚醒させた。
「フ……フロー……ニャ?」
思わず名前を呼びそうになり、あわてて誤魔化す。
「しーっ。あまり大きな声を出してはダメですわ。女官たちに見つからないよう、コッソリ瞬間移動して来たのですから」
(瞬間移動……!?じゃあ、夢でも幻でも生霊でもなく、マジでフローラなのか!?)
改めて見つめると、フローラはいかにも『夜にこっそりベッドを抜け出して来ました』という格好をしていた。
服はボリューミーなフリフリドレスではなく、ゆるいシルエットのネグリジェの上にガウン一枚、いつもはハーフアップにして大きなリボンでまとめている髪も今は全て下ろされていて、昼間とはかなり印象が違う。何と言うか……ひどく“無防備”な感じだった。
思春期まっただ中の俺は、それだけでも何だかイケナイものを見ている気がして心臓をドキドキ高鳴らせていたのだが……すぐに別の理由で心臓をバクバク激しく動悸させることになった。
「では、とりあえず私の部屋へ参りましょう。こんな所にひとりぼっちなんて可哀想ですものね」
そう言ってフローラが右手の指先を首元の聖玉に当てた次の瞬間――俺は『F1レースとかSFモノなんかで出て来る“G”って、こんな感じかな?』とおぼろげに想像していたモノを、実際に身を持って体験する羽目になった。
「ぐぶ…………ッニャ……」
凄まじい圧迫感に思わずうめき声が出る。
だが、それはほんの一瞬の出来事で、そのナゾのGは、おそらくは1秒も経たないうちにフッと消え去った……と思ったら、今度はナゾの浮遊感が俺を襲う。……いや、ソレは正確には浮遊と言うより落下と言った方が正しいのだが……。
(お、落ち……るッ!?)
突如空中に放り出された俺は、そのまま重力に引っ張られて自然に下へと落ちていき……ぼすっと何か柔らかいものの上に着地した。
「!?……???」
「あらあら、少し目測を誤ってしまったようですわ。でも、出現地点が寝台の上で良かったですわね。……ニャンコさん、ケガなどしていませんわよね?」
後々分かっていくことだが、フローラは瞬間移動のコントロールですら、何回かに1回の割合で失敗する。目的地点からちょっと横にズレるくらいならまだ良い方で、ちょっと上にズレられた日には、こんな風に空中にパッと出現させられ、そのまま垂直落下するハメになるのだ。
「……ニャンコさん?大丈夫ですの?ひょっとして目を回してしまいましたの?……やはり瞬間移動に慣れていないと、酔ってしまうのでしょうか?」
呆然として反応の無い俺を、フローラが心配そうに覗き込んでくる。
(瞬間移動!?今のが!?……何って心臓に悪いんだ。……つーか、もしかしてココって、フローラの部屋の中……?)
我に返った俺はキョロキョロと辺りを見渡してみる。
そこは豪華な彫刻を施したベッドやサイドテーブルといい、女の子らしいフリルのついた花柄のカーテンといい、いかにも“姫様の部屋”という感じの場所だった。
「大丈夫みたいですわね。ではニャンコさん、一緒に寝ましょう。私、ふわもこの動物を抱っこして眠るのが、幼い頃からの夢でしたのよ」
言いながらフローラは布団をめくり、中に俺をもぐり込ませる。
(ね……寝るだと!?一緒のベッドで!?しかもフローラに抱っこされながら!?い、い、いいのか!?ソレ)
戸惑っている間にもフローラはガウンを脱ぎ、ネグリジェだけという姿になって俺の隣にすべり込んできた。しかもそのまま両腕を俺の胴体に絡みつかせてくる。
「あったかいですわ……。ニャンコさんってフワフワなだけでなく、ぬくぬくなんですのね……」
猫になっているとは言え、フローラと身体を密着させて寝ているというこの異常事態に、俺の思春期脳は最早キャパオーバーのオーバーヒート状態で、すっかり思考が停止してしまっていた。
「……それにしても、不思議なものですわね。私、アーデルハイド様を今一度こちらへお呼びしようとして“扉”を開きましたのに……。まさか異世界のニャンコさんがいらしてしまうなんて……」
フローラは俺を抱きしめたまま、ひとり言のように呟きだす。
「……やはり異世界の方をこちらへお招きするのは難しいことなのでしょうか?もしかして私、もう二度とあの方にお会いできないのでしょうか?あんなお別れのままで……」
フローラが何やら俺のことについて語ってくれているというのは、ボンヤリ状態の俺でも何となく理解できてはいた。
だが、その時の俺にはそれよりも、抱きしめられた腕から伝わって来るぬくもりや、柔らかく長い髪の感触の方が、遥かに気になって気になって仕方がなかったのだ。
特に、ほのかに甘い香りのする髪――それが、猫になった俺の口の周りや鼻先にフワフワと触れてくるのが、どうにもムズムズしてたまらなかった。……気持ちがいいような……くすぐったいような……。
「……アーデルハイド様……。ワガママだとは分かっています。ですが、私、どうしても、もう一度あなたにお会いしたいのですわ」
フローラが思いつめたような声でそう囁いた直後、俺の鼻のムズムズが限界を突破した。
「ふ……にゃッくしょいッ!」
――そう。俺は、よりにもよって聖玉姫の寝台の布団の中で元の姿に戻ってしまったのだ。
「え?え?え!?」
布団の外からフローラの動転した声が聞こえてくる。だが、パニクっていたのは俺も同じだ。
聖なるお姫様のベッドの中に全裸の男が一人。誰かに見られたら、どう考えてもタダでは済まない状況だ。
(ヤ……ヤバい……っ!とにかくフローラに顔を見られないようにしないと……っ!)
布団の中にすっぽり潜り込まされていたのを幸いと、俺は身を隠すべく、さらに奥へ奥へと潜っていこうとした。だが、まだ成長途中とは言え大の男一人、そんなことで身を隠しきれるわけがなかった。
「な……何ですの?何が起こっていますの……?」
おそるおそる、という感じでフローラが布団をめくり上げてくる。俺はさらに布団の奥へ潜って逃れようとしたが……逃げ切れなかった。
「……よ、よう、フローラ。久しぶり……でもないな。えっと……コンバンワ?」
ちょうどフローラの腰の辺りまで潜り込んでいた俺は、肩から上だけを布団の外に出し寝転がったままという体勢で、そんな再会の挨拶を口にした。下半身までめくられなかったのは不幸中の幸いだったが、上半身裸なのは隠しようがない。
「え?え!?アーデルハイド様?何故、アーデルハイド様が、私の寝室に、裸で……?」
フローラの顔が一瞬で真っ赤になるのが、ベッドサイドの間接照明だけでもよく分かった。
「キャ…………」
悲鳴を上げられる、と思った俺は、とっさにフローラの口を手でふさぐ。
「ち、違うから!これは……そう、夢だ、夢!フローラ、寝ボケて夢見てるんだよ!」
「ゆ……夢……?」
フローラが俺の手の下でモゴモゴと、俺の言った言葉を繰り返す。
「そう!夢だ!だってホラ、この前帰ったばっかの俺が、今この世界にいるはずないだろ!?」
「そ……そうですわね……。いるはずがありませんわ……」
フローラがボンヤリした目でつぶやく。とりあえず、もう悲鳴を上げられることは無さそうだ。
ホッと安堵の息をついたその時、廊下の方からバタバタと慌ただしい足音が聞こえてきた。
「聖玉姫猊下っ!お部屋から何やら物音が致しませんでしたか!?」
(マ……マズい……っ!絶っっ対に見られたらヤバい状況だぞ、コレっ……)
俺は素早く室内を見渡し、逃走経路を探す。廊下へつながる扉は使えない。となると、行くべき道は一つしか無かった。
「フローラ、悪いけど、ちょっと借りるな」
まだボンヤリ思考停止中のフローラに一応断りを入れ、俺はベッド脇のイスに引っかけられていたガウンを手早く羽織った。音を立てないように気を使う余裕も無く、とにかく急いでカーテンと窓を開け、バルコニーへ飛び出す。
(……高い、な。2階か……3階か……。何とか下へ下りられないか……?)
手すりから外の様子を確かめていると、背後から、女官が扉を開けて室内へ入って来る音が聞こえてきた。
「そこに誰かいるのですか!?」
(ヤ、ヤっべー……!)
俺はとにかく女官から少しでも遠ざかろうと、バルコニーの手すりを乗り越える。外壁に何かつかまれる凹凸でもないかと探してみるが、下の階との境目に申し訳程度の出っ張りがあるくらいで、配管パイプの一つも見当たらない。
その間にも、女官がこちらへ向かってくる気配がひしひしと迫っていた。
(ど……どうする……!?イチかバチかで飛び降りるか!?いや、下手すりゃ死ぬし、下手しなくてもケガくらいしそうだし、そうなったら逃げられなくなって、結局捕まっちまうぞ……!)
為す術もなくバルコニーの端でアワアワする俺の足首に、次の瞬間、ぬるりとした何かが絡みついた。
「ふぎゃ……っ!?」
そのまま絡め取られた脚を、恐ろしい勢いで引っ張られる。手すりにしがみつこうとするのも間に合わず、俺の身体はそのままバルコニーから引っぺがされて宙を舞った。
(あ……俺、今度こそ死ぬかも……)
強烈な浮遊感を味わいながら、俺の意識はそのままプツンとブラックアウトした。
「……ハイドさん。アーデルハイド・コータロー・タカハシさん。いい加減、起きてくださぁい」
聞き覚えのある、のんびりした声。そして、全く覚えのない生温かいヌメヌメの感触に顔を何度もなめられ、俺はバネ仕掛けのオモチャのように激しく飛び起きた。
「うぁっ!?えっ……と?俺、一体何がどうなって……?」
「非常にぃマズそうなぁ状況にぃ見えましたのでぇ、グレイスにお願いしてぇ、あなたを回収させてぇいただきましたぁ」
気絶状態から回復したばかりの人間に対して甚だ不親切な説明をしてきたのは――話し方で既に分かってはいたが、例の赤ずきん姫ことリィサ・ロッテ・リーストだった。そしてその背後には……
「………………ッ!?!?!?」
……ヒトは、あまりに己の理解を超えた衝撃的な物体を目にすると、もはや悲鳴さえ上げられなくなるものらしい。
「な、な、何なんだっ!?そのバケモノはっ!?」
ショックからわずかに立ち直り、ようやく叫び声を上げると、リィサがぷぅと頬をふくらませた。
「失礼しちゃいますぅ。このコがぁあなたを窮地から救ってくれたぁ、ウチの優秀なキメラのぉ、グレイスですぅ」
リィサが、まるで大型犬でも愛でるようにナデナデしていたのは、熊ほどの大きさをした真っ黒い毛むくじゃらの何かだった。
鋭い爪のついた獣の前肢と、阿修羅像のように3つの顔を生やした犬……というだけなら「この世界にも地獄の番犬的な生物がいたんだなー」で済むのだが、その背にはカラスのような漆黒の翼が生え、後肢はウロコで覆われた巨大な鳥の脚、3つある口からはタコ足のように複雑に枝分かれした舌が妖しく蠢いていた。しかも、その舌先のいくつかには、目玉のような物体が埋め込まれていて、時々ギョロリとこちらを睨む。
「キ……キメラって……確かもう、創るの禁止されてるんじゃ……」
「よくぅご存知ですねぇ。ですからこのコはぁ、聖玉姫協定がぁ結ばれる以前に生まれたキメラでぇ、代々ウチの地下でぇ大切に飼育されているのですぅ」
(――なるほど、100歳超えの長生きキメラなら、今もフツーに生存してるのか……。つーか、さっき俺の足首つかんだり、顔ナメたりしてきたのって、まさかコイツの舌なんじゃ……)
「ところでぇ……無事人間に戻れたようですがぁ……ローズピンクのフリフリガウン一枚とはぁ……コメントに困るお姿ですねぇぇ……」
フローラから拝借した乙女ちっくなお姫様ガウンを指差され、顔にカーッと血が上るのが分かった。
「し、仕方ないだろっ!服調達するの自体ギリギリだったんだぞ!」
「それにしてもぉ……猫さんの姿でぇフローラ王女にスパ……あ、いいえぇ、身の回りを探るようにぃお願いしましたのにぃ、どうして人間の姿に戻ってあんなことにぃ?」
「う……っ、これは、いろいろアクシデントがあってだな……って言うか、そうだ!俺、見つけたぜ!アヤシイ奴!ここの女官の一人に、たぶんヨソの国の女スパイが紛れ込んでる!」
“仕事はちゃんとしてましたアピール”にそう叫ぶと、リィサは元から大きな目をさらに大きく見開いて俺を見た。
「それはそれはぁ……なかなかグッジョブですねぇぇ……」
「だろ!?早くあの女捕まえて、何を企んでるか訊き出さないと!」
「……で、その女スパイはぁ、何という名のぉ女官に化けているのですか?」
当たり前のように詳細を問われ、それ以上の情報などまるで持たない俺は、そのまま硬直した。
「え…………知らない」
「フルネームでなくてもぉ、愛称などでも良いのですけどぉ。あと、他の女官とぉ区別のできる特徴とかぁ……」
「えっと…………そうだ、確か金髪に青い目で、髪は何かこう、後ろでひとつに束ねてて……」
「あのぉ……金髪碧眼はぁ、この辺りでは珍しくないですしぃ、髪型もぉ、ここに勤めている女官のぉ、ほとんどが同じ髪型ですよねぇぇ?」
「………………」
「つまりぃ、どの女官がぁスパイなのかぁ説明できないと……。あなたぁ、諜報員とかぁ探偵にはぁ向かないタイプですねぇ……」
「か、顔は覚えてるし!次はちゃんと名前とかもチェックするし!」
「ハイハイぃ……、ぜひぃそうしてくださいぃ。ではぁ……また猫さんの姿にぃ戻りましょうかぁ……」
そう言ってリィサがパチンと指を鳴らすと、背後に控えていた例のキメラがその漆黒の翼をバサリと広げて俺に覆いかぶさってきた。
襲われる――!?と思ったのも束の間、キメラはその羽根の先で器用に、そして絶妙に俺の鼻先をくすぐってくる。
「うわ……っ!?ちょ……っ、ふ……ふにゃ……ッくしょいっ!!」
たまらずクシャミをした直後、身体が急速に縮むのを感じた。そのまま猫の姿でフローラのピンクガウンの中に埋もれ、必死にもがいていると、リィサがひょいと俺をすくい上げてきた。
「今度はぁ、失敗しないでくださいねぇぇ。スパイの名前も大事ですけどぉ、そのスパイがぁ誰かと接触していたりぃ、アヤシイ動きをしていないかぁ、しっかり見張っていてくださいぃ」
(――そう言えば俺、もうだいぶ長時間あっちの世界に帰れてねぇけど、大丈夫なんかな……?)
朝の光を浴びてノビをしながら、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
「あらぁ?猫ちゃん、いつの間に休憩室から出ちゃったの?……嫌だわ。戸締りをしっかりしてなかったのかしら?」
中庭に面した回廊をトコトコ歩く俺を見つけ、女官が声を掛けてくる。……残念ながら例の女スパイではなかった。
界聖宮の女官たちは敷地内にある宿舎に住み込んでいる者がほとんどで、朝になると白い女官服姿の女たちがゾロゾロと廊下を渡ってくる。女同士で談笑しながら群れて歩くその姿は、どことなく女子校の登校風景のようにも見えた。
「あのー、女官長。例のネコちゃん、外に出ちゃってますけど、いいんですか?」
「あぁ、大丈夫ですよ。この猫さんはとてもお利口で、しつけもしっかりしてあるので、無闇に閉じ込めず自由行動をさせてあげて欲しいと、リーストの王女様よりお達しがありましたので」
後々知っていくことだが、フローラがしっかりして見えて案外グダグダなのに対し、一見ボンヤリして見えて意外に要所要所を押さえているのがリィサだ。この時もこうしてリィサのフォローのおかげで、俺の行動の自由度は飛躍的に上がったわけだが……
(しっかし、広……っ。しかも女官の数、めっちゃ多いな。例の女スパイ、どこにいるんだ……?)
聖なる姫様の住まいで、女官たちの服装も白っぽく清楚なものだから、当初の俺は界聖宮を“神殿”か“大聖堂”のようなモノだと誤解していた。しかし、実際に建物の内部を詳しく見ていくと、そこが宗教色の全く無い事務的な空間であることに気づかされる。神殿や聖堂にはありがちな神仏の像を祀った礼拝堂などは一切無く、代わりに古めかしい本が山ほど詰まった書庫や、何に使うのかよく分からない器具の置かれた研究室のようなもの、幾人もの文官が忙しそうにデスクワークする部屋などがいくつもあった。
(えっ……と、こっちの方へ行くと、確か……俺がこの世界に初めて来た時の中庭があるはず……だよな)
界聖宮の造りは複雑で、いくつもの中庭が存在している。その中でも俺が初めて召喚された時に降り立ったタイル敷きの中庭は、かなり奥まった人気の無い場所にあった。
何となくトテトテとそちらの方へ歩いていくと、廊下の先に見覚えのある人影を見つけた。
(あれは……例の女スパイ!やっと見つけた!)
女スパイは手にモップを持ち、いかにも『ただ今そうじ中です』という風を装っていた。が、その目は何かを探ろうとするように落ち着きなく辺りを窺っていた。
「にゃー」
あんなにキョロキョロされていては、どの道見つかるだろうと思い、俺は『ただの猫だから気にすんな』アピールに、いかにもテンプレな猫の鳴き真似をしながら近寄っていく。
女スパイは一瞬ビクッとしたものの、すぐにホッと警戒を解いた。
「あぁ……何だ、例の猫ね。こっち来ないで。シッシッ」
邪険にあしらわれるが、ここで引き下がるわけにはいかない。俺は空気が読めない猫のフリで、さらに女スパイの足元に近づいていった。
「ゴロニャー。ゴロゴロニャー」
「きゃっ!ちょっと、懐いて来ないでよ!アンタみたいなのにまとわりつかれてちゃ邪魔……」
女スパイが言葉だけでなく実力行使で俺を追い払おうとしてきたその時、背後からふいに、感情の全く読めない女の声が聞こえてきた。
「トリーヌ、そこで何をしているのですか?」
「にょ……女官長……!?」
トリーヌと呼ばれた女スパイはもちろん、俺も思わずビビりまくって後ずさる。
(声掛けられる直前まで全く気配を感じなかったぞ。女官長……何者だよ)
女官長フェリアは無表情にトリーヌを見つめると、再び口を開いた。
「トリーヌ、あなたの持ち場はここではなかったはずです。ここより先は限られた人間しか立ち入りを許されぬ場所。あなたも知っているはずです」
「え……っと、あの、でも……廊下にホコリが……。あ……っ!ホラ、猫の抜け毛なんかも溜まっちゃってますし、掃除しないと!」
トリーヌはしどろもどろに言い訳を始め、ふと俺に目を留めると『ホラ、ここに掃除しなきゃいけない原因が!』とでも言いたげにビシッと指差してきた。
「……トリーヌ、私は何も咎めているわけではないのですよ。今“結界の中庭”ではフローラ姫様が聖玉制御の修業をされています。いかに結界で隔てられているとは言え、相手はあの姫様。万一、暴走でも起きれば、どんなことになるか分かりません。……つい先日も、将来有望な若者が時空の歪みに吸い込まれて消えてしまったばかりですし……」
沈痛な面持ちで告げられたその言葉に、俺はハッと閃く。
(俺のことか!……つーか“先日”って言い方からすると……やっぱ地球とこっちの世界とじゃ、若干時間のズレがあったりすんのか?)
前回の召喚時のことをぼんやり思い出そうとしていたその時、トリーヌが喰いつくようにフェリアに質問しだした。
「あの……っ、その“将来有望な若者”って、結局何者だったのですか?噂では、フローラ姫様の花ムコ候補ですとか、歴戦の勇者ですとか、いろいろ言われてますけど……」
(え……そんな噂広まってんのか……?)
さすがに聞き捨てならず、俺は二人の会話に耳を澄ませる。
「それを聞いてどうするのです?彼が何者だったにせよ、もう二度とここには戻って来ないかも知れませんのに……」
(……いや、今、思いっきりココにいるけどな……)
心の中でツッコミを入れつつ聞いていると、トリーヌがさらに踏み込んだ質問をし始めた。
「あの……っ、噂ではフローラ姫様、実は異世界への扉を開くことに成功されて、あちらの世界の動植物を密かに収集してらっしゃるとか……。先日の若者も、実は召喚に成功した異世界の少年ということは……?」
トリーヌの実に的確な推理に、フェリアの眉が一瞬だけピクリと動く。だが、それ以上は表情を動かすこともなく、フェリアは感情の籠っていない声で答えを返す。
「一体どこでそのような噂を聞いたのですか?いかに姫様が歴代聖玉姫の中でも稀有な御力の持ち主と言えど、異世界と空間をつなげるなど、夢のまた夢の話。そのように人間離れした偉業、成し遂げられるはずが無いではありませんか」
「でも……実際にここの所、見たこともない動植物のサンプルが頻繁に……」
「……トリーヌ。あなたの持ち場はどこですか?こんな所で無駄話をしていないで仕事に戻りなさい。やるべき職務を果たしていないとなれば、人事査定を厳しくせざるを得ませんよ」
「ハ、ハイ……ッ!すみませんでした……っ!!」
厳しい声での一喝に、トリーヌはサッと顔色を変え、例の中庭とは逆の方向へと走り去っていく。
フェリアはその後ろ姿を見送った後、溜め息とともに意味深な一言を漏らした。
「……何というあからさまな間諜行為。あんな娘を使っているなんて、彼の国ではよほど人材が不足しているのかしら」
(へ……?女官長、あのトリーヌって女がスパイって見抜いてる?まさか知っててワザと泳がせてんのか……?)
気にはなったが、今はトリーヌを追う方が先だ。今度は見失うことのないよう、俺は猫の脚力を最大限に活かしてトリーヌの後を追いかけた。
(俺、諜報員や探偵に向かないタイプって言われたけど、あのトリーヌって女も相当だよな……)
トリーヌを尾行し、その動向を観察しながら、俺はそんなことを思っていた。
トリーヌの目的はどうやらフローラに危害を加えるようなことではなく、異世界召喚についての情報収集らしい。女官としての仕事をするかたわら、同僚の女官や文官たちに話を訊いて回っているのだが……
「フローラ姫様が“結界の中庭”で実際にどんな修業をなさっているのか、見たことってあります?」
「え?あるわけないでしょ?巻き込まれたらイヤだもの」
「フローラ姫様が異世界召喚に成功なさったとかいう噂、聞いたことありません?」
「え?知らないけど。って言うか、そんなスゴイこと成功したんだったら、今頃大騒ぎでしょ?」
“世間話のついで”という自然さを装う気など一切無いらしく、会話の流れさえ気にせずブッた切り、ガッツリ前のめりに訊きたい話題を出しまくりだった。その不自然さに相手が若干ヒキ気味なのにも気づいていない。
おかげで同僚たちからも既に怪しまれているのだが、そのあからさま過ぎる情報収集が逆に“素人くさ過ぎてプロのスパイではあり得ない”と思われるらしく
『トリーヌさんって、何だかスパイっぽいわよね』
『まっさかー。あんな分かりやすいスパイいるわけないでしょ』
『きっと単に好奇心が旺盛過ぎるだけよね』
『って言うか、会話の空気読ま過ぎよねー』
などと、何だかイイ感じに解釈されていた。
(……つーか、あの女、何でフローラの異世界召喚について調べてんだ?しかも、やっぱ異世界召喚のことは界聖宮の人間もほとんど知らないっぽいな)
実はこの世界にとって“異世界とつながる”ことは、各国の勢力図――あるいは世界構造そのものすら変えてしまいかねないほどのインパクトを持つ超重要案件なのだが、この頃の俺がそれを知る由もない。
「……ふぅ。なかなか上手くいかないものね。こんなことじゃ、いつ姫様の元に戻れることか……」
休憩室に一人きりになると、トリーヌはまた例のペンダントを取り出し、ブツブツと一人言を呟き始めた。
「……あぁ、姫様。トリーヌは姫様のためなら、どんな危険な任務でも果たしてみせます……っ。でも、そのために姫様のおそばにいられないなんて……」
(この女、姫様大好きだな。なんか、主従愛って言うより、もっと濃ゆい愛を感じる気が……)
一人の世界に浸るトリーヌを陰から胡乱な目で見つめていると、視界の端に何か、猫の本能的にものすごく気になるモノを見つけた。
(あれは……ヤモリ……?それともトカゲ、か?)
どこから入り込んだのか、茶色い小さな爬虫類が四つん這いでカサコソとトリーヌに忍び寄っていた。
「フーーーーーーッ」
気づけば俺は物陰に隠れることも忘れ果て、その爬虫類に向け唸り声を上げていた。……言っておくが、猫の本能で仕方なく、だ。俺の意思ではない。
「きゃっ!?例の猫?いつの間にっ!?……って言うか、ナニ威嚇してんのよ!ダメよ!このコは……!」
トリーヌは俺から庇うように、あわててその爬虫類を手の上に掬い上げた。そのまま目の高さまで持ち上げてマジマジと観察し、ほぅっと安堵の息をつく。
「……やっぱり、姫様の伝書竜だわ。良かった、猫に獲られる前で。まったく、だから猫なんてイヤなのよ。姫様のお文遣いに何かしてみなさい、あんたなんかドブ川に放り込んでやるんだからね!って言うか、もうあっち行きなさい!シッシッ!」
(伝書竜……!?ソレ、ヤモリでもトカゲでもなく竜だってのか……!?)
床からの猫の目線では、よく見えない。俺は猫の身軽さを利用して棚の上に飛び乗り、上からそのトカゲっぽい何かを観察してみた。
ソレはパッと見はただのトカゲにしか見えないのだが、よくよく見ると西洋のドラゴンをシュッと細くしてミニチュア化したような姿をしていた。
トリーヌは犬か猫でも可愛がるように『よしよし』とその竜の背を撫でる。
すると竜は腹と喉を奇妙に蠢かし始め、そのうちにペッと何かを吐き出した。伝書鳩の脚によく括りつけられている感じの、手紙を入れる小さな筒状の容器だ。
(うぇええぇ〜っ!?伝書竜って、そうやって手紙運ぶのかよっ!?)
思いのほかグロテスクだった手紙の格納方法にショックを受けていると、文面に目を通したトリーヌが頬に手を当て叫んだ。
「……姫様が、いらっしゃる!?直接私の報告を聞きに!?ど、どうしよう……っ!まだ何の成果も得られてないのに……っ!……って言うか、ヤダ!こんな、お肌のコンディションの悪い日にっ!あぁ、でもっ、久しぶりにお会いできる……!……そうだ、とにかく、お返事を……っ」
トリーヌは女官服のポケットから小さな紙とペンを取り出すと、何かを書きつけ、それをクルクル丸めて伝書竜の筒に入れた。
「ハイ、じゃあ、よろしく。私の手紙、ちゃんと姫様に届けてね」
トリーヌが伝書竜の目の前にポンと筒を置くと、竜はカメレオンのように長い舌で器用にそれを絡め取り、ゴクンと丸呑みにした。そしてそのままトリーヌが開け放した窓から小さな翼で飛び立っていく。
その姿が見えなくなるまで見送ると、トリーヌはガッツポーズでナゾの気合を入れる。
「よッし、約束の時間まで、あと5時間。少しでもお肌のケアをしておかないと……っ」
(いや、やること違くねぇか?成果が何も無い件はいいのかよ……!?)
例の心聖玉の姫をこの目で見られるかも知れない――なんてことを考えるより先に、俺は思わず心の中でトリーヌにツッコミを入れてしまった。
その後、俺は自分が何を探っているのかも分からなくなりかけながら、トリーヌが女官仕事の合間に行う奇妙な顔面ストレッチや、キュウリっぽい輪切り野菜を顔中に貼っているところなどを、5時間もの間、延々と観察し続けたのだった……。
トリーヌと例の姫との密会場所は、街中にある自然公園だった。
昼間なら市民の憩いの場としてそれなりに人気の場所だが、夜になると真っ暗になってしまうため、日も暮れようというこの時間帯ではトリーヌたち以外に誰もいなかった。
私服の小洒落たワンピースに着替えたトリーヌがいそいそと公園に入ると、例の伝書竜がどこからともなく現れて道案内を始める。
用心のためか、例の姫は木が鬱蒼と繁る公園の、さらに奥まった木々の陰に隠れるように立っていた。
目深にかぶったつば付きの帽子に、暗い色のコートとブーツ、襟付きシャツにパンツスタイルと、一見男か女かも分からない地味な服装だったが、長身でスタイルが良いせいか、遠目からでもどことなくモデルか何かのような存在感を感じた。
「……姫様っ!!」
恋する乙女の瞳でトリーヌが姫に突進していく。姫はチッと舌打ちし、抱きつこうとするトリーヌを腕一本で押し止めた。
「大きな声を出すな。人に見られると厄介だろう」
「こんな時間に誰もいませんよぉ。あぁ、姫様……相変わらずの麗しいお姿……。お会いしとうございました……っ」
「相変わらず鬱陶しい奴だな。……で?例の件について何か分かったことはあるか?」
傍から見ていてもトリーヌと姫との温度差は明白だった。だが、どんなに冷たくあしらわれようと、トリーヌのうっとりした目は変わらない。
「私、姫様のために頑張って調査してます。でも、敵もなかなか手強くて……」
「……あぁ、いい。まどろっこしいから、お前の心に直接訊く」
姫はうんざりした声でそう言うと、胸元からペンダントを引っ張りだした。
トリーヌが持っていたのと同じ、翼を広げた竜で十字を象ったペンダントだ。ただし姫のペンダントには、中央にフローラやリィサの聖玉と同じ虹色の石が嵌まっているようだった。
姫はその石に指先を触れ、しばらく無言になる。
(アレは……聖玉?やっぱりコイツが、例の心聖玉の姫なのか……?)
茂みの陰から二人の方を凝視していると、ふいに例の姫がピクリと肩を揺らし、こちらを見た。氷のような冷たい視線が俺を貫く。俺は背筋にゾクッとしたものを感じて硬直した。
(何だ?目ぇ合ってる?見つかった?……いや、でも俺、今、猫だし。バレるわけねぇだろ。コイツらが探ってる異世界召喚で、実際に異世界から連れて来られたのが俺だなんて)
俺はついうっかり心の中でそんなことを考えてしまっていた。
今にして思えば、心聖玉などと名のついた聖玉なのだから、心を操るだけでなく、読む力もあると考えて用心しておくべきだったのかも知れない。
だが、フローラの“敵”をこの目で確認するという、その目的だけで頭がいっぱいになっていた俺にそんなことを考えるゆとりは無かった。
「……ほぅ。にわか仕立てのスパイなど結局役には立たないと思っていたが、思わぬ成果が得られたではないか」
姫は面白そうにそう言うと、足早に近寄って来て、ヒョイと俺をつまみ上げた。
「お前は何者だ?異世界の猫とはそのように知能が発達しているものなのか?」
初めてその顔を間近に見る。その姫は、どことなく宝塚の男役を思わせるビシッとした美形だった。十人が見たら十人全員が『美人だ』と答えるに違いない、分かりやすく整った顔立ち。
だが、無表情なせいか、まとう雰囲気のせいか、その姫にはどこか冷たい印象があった。
「……タカラヅカ?男役?何が何だか分からんが、お前が異世界から来た人間ということは理解した。何故、今そんな姿になっている?……あぁ、なるほど。例のキメラ姫の悪戯か」
(……この女、まさか俺の心を読んでる!?いや、リアルタイムで考えている事どころか、記憶まで読んでねぇか!?やべぇぞ、異世界人だってバレてるし……!)
「あのー姫様?何で私を放っておいて、そんな猫と遊んでらっしゃるんですか?……って言うか、その猫!例のフローラ王女のペットじゃないですか!やだ!こんな所までついて来ちゃったの!?私を追って!?ストーカー猫じゃないですか!」
すっかり放置されていたトリーヌが訝しげに近づいて来て喚きだす。姫は再び舌打ちし、俺を片手でつまみ上げたまま、トリーヌに身体ごと向き直った。
「やはり、お前のような浮ついた小娘は面倒だな。こうして“成果”も得られたことだし、下手なことをされて足を引っ張られては敵わん。お前はもう用済みだ。私のことは忘れるがいい」
「……は?何を仰ってるんですか、姫様。忘れろと言われましても、私は姫様の忠実なる僕で……」
「いいや。お前は私とも我が国とも何の縁も無い、そもそもスパイでも何でもない、ただの娘だ。思い出すがいい。お前の真の姿、真に在るべき場所を」
姫が聖玉に指先を触れ、トリーヌの目を覗き込みながら囁くと、トリーヌの身体が小刻みに震えだした。――いや、身体だけではなく、瞳も奇妙に震えている。
「わ……私は……そうだ、私の家は、ココじゃない……何で、こんな所に……?」
トリーヌは震える唇でうわ言のように呟く。その様子に、なぜか俺の脳裏に例の悪のボスの姿が蘇ってきた。
「思い出したなら忠誠の証を返し、去るがいい。そして私のことも、ここ一月あまりのことも、全て忘れるのだ。良いな?」
命じられると、トリーヌは服の中から例の竜十字のペンダントを引っ張り出し、姫の手のひらの上にシャラリと落とした。そのまま、あれだけ姫に執着していたのが嘘のように、後ろを振り返りもせず去っていく。本人の意思をまるで感じさせない、何かに取り憑かれたかのようなフラフラした歩き方だった。
(何なんだ、アレ。まるで何かに操られてるような……って、そうか!操ってんのか、例の心聖玉とかいう聖玉の力で……!)
「ご名答。あの小娘は元はスパイでも何でもない、この国の中産階級の娘だ。諜報活動の精度は落ちるが、足がつかないのがラクでな。……界聖玉宮には鼻の利く番犬もいるようだし」
「この前の悪のボスもあんたの仕業か……!」
「……ほう。猫の姿でも人語が話せるのだな。……言っておくが、先日の窃盗団首領の騒動のことなら、私はあそこまでは指示していない。心を操れると言っても、命令後の各自の行動は、その者の人格に左右されるのでな。件の首領のように怨恨に囚われて暴走する例もあれば、トリーヌのように空回りする例もある。神の力を分け与えられた聖なる石と言えど、万能ではないのだ」
姫は隠そうともせずに自らペラペラ手の内を明かしてくる。俺にはそれが不気味だった。
(コイツ……何でこんな自分から秘密をバラすんだ。まるで、べつに知られても全然構わないって感じで……)
「……あぁ。そうだ。べつに知られたところで痛くもかゆくもない。お前はすぐに私のモノになるのだからな」
「は……!?」
俺の首根っこをガッシリ捕まえたまま、姫はもう片方の手を再び聖玉に当てる。
(まさか、俺の心も操るつもりか!?)
「その通り。我が一族が千年以上もの長きに渡り追い求め続けた異世界との繋がり……。逃すつもりはない。共に来てもらうぞ。さぁ、私のモノとなれ。私を愛し、私に全てを捧げるのだ!」
強い口調でそう命じられた直後、視界がぐらりと揺れた気がした。
強烈な車酔いでもしているような感覚で、脳が上手く機能しなくなる。自分が何者で、どうして今この場所にいるのかもよく分からず、ただ目の前にいる姫の姿ばかりが頭を占める。その顔が、すらりと伸びた手足が、何だかひどく素晴らしいものに思えてくる。この人よりも美しい存在は、この世界にも元の世界にも存在しないのではないか――この人のことを好きになり、この人に尽くすのが“正しいこと”なのではないかと、そんな風に思えてくる。
――だが、心が完全に支配される寸前、俺の目がふと姫の眉毛を捉えた。髪と同じく金色で、形は整っているが、やや細過ぎて、あたたかみに欠ける眉……。瞬間、堰を切ったように頭の中にフローラの姿が……その美麗な眉毛の記憶が溢れ出してくる。
(違う、この眉毛じゃない!世界で一番美しい眉毛は、断じてコレじゃない……!)
「は……!?眉毛……だと!?」
姫の目が驚愕に見開かれ、手の力が緩む。その隙を逃さず、俺は必死に暴れて姫の手から飛び降りた。
「危ね……っ!もう少しで操られちまうとこだった……!」
バクバクする心臓を落ち着かせようと深呼吸していると、姫が混乱の極致にあるような顔で叫んだ。
「貴様……何なのだ!?何故私を愛さない!?貴様の思考回路はどうなっているのだ!?異世界人にとって眉毛とは、それほどまでに重要な部位なのか!?」
「重要に決まってるだろ!?眉毛ひとつで顔の印象変わるんだよ!」
「認めん!私の美貌が眉毛ごときで負けるはずがない!ちゃんと私を見ろ!そして私を愛せ!」
姫は聖玉に指を当てたまま再び命じる。しかし俺の心にはもうしっかりとフローラの眉毛の面影が蘇っている。もはやこの姫の魅力に屈することなどあり得ない。
「もうその手に乗るものか!俺の中のマイベスト眉毛はもう決まってるんだよ!」
「うるさい!眉毛が何だと言うのだ!私を愛せ!私のモノになれ!」
姫は躍起になったように叫び続ける。その台詞を聞きながら、俺はふと現在のシチュエーションを冷静に分析していた。
(……何かコレ、アレだな。すっごい上から目線な女子に愛の告白されてるみたいな感じになってるな。しかも傍から見たら猫に告白してる変な女子っていう……)
俺のその心の声を読み取り、自分でもこの状況のおかしさに気づいたのか、姫の顔が怒りか羞恥か分からないもので真っ赤に染まる。
「……生まれて初めてだぞ。このような屈辱を味わったのは……」
笑っているようで全く笑っていない歪な表情でそう言った後、姫は一気に俺との距離を詰め、再び俺を捕まえた。
「しまった……!」
「心を操れぬと言うなら、力づくで私のモノにするまでだ!来いっ!」
そのまま旅行鞄のようなものに詰め込まれ、フタを閉められ、視界が真っ暗になる。
(うわ……馬鹿かー俺はー。何ですぐにダッシュで逃げなかったんだ……)
どうしてすぐに逃げなかったのか、理由は今ならハッキリ分かる。
平和ボケに育ち、危機意識も何も持っていなかった俺は、上から目線な姫様の愛の告白的シチュエーションと、その後の顔を真っ赤にしてのリアクションを、ついつい面白がり観察してしまっていたのだ。
これまでに幾多の困難を乗り越えてきた今の俺だから言うが、逃げるチャンスがあるなら、『ちょっと様子見』だとか『相手の出方を窺って』だとか『今の状況を把握してから』だのと考えず、さっさと逃げっておくに越したことはない。
イギリスに『好奇心は猫を殺す』という諺があるが、俺はこの時のちょっとした好奇心を、かなり後々まで悔やむ羽目になる。
何せ、この時、最悪のファースト・コンタクトを遂げてしまった相手は、それぞれ別の意味でクセの強い八聖玉姫の中でも相当に厄介な部類に入る、竜王国の“笑わない姫”だったのだから……。
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